横浜市立大学 医学部 発祥之地

よこはましりつだいがくいがくぶはっしょうのち

横浜市営地下鉄 ブルーライン 阪東橋駅から南東へ400m、南区役所総合庁舎北西隅の植込みに横長の碑が横たわっている。

沿革の碑文が長すぎる ε=(ノ_ _)ノ

写真

  • 横浜市立大学医学部発祥之地 碑文
  • 横浜市立大学医学部発祥之地

碑文

横濱市立大學醫學部
發祥之地

沿革

横浜市立大学医学部は茲、浦舟の地にその起源を求めることが出来る。即ち、その前身である横浜医学専門学校が一九四四年に開学したことに始まる。
時恰も第二次大戦の最中であり設立されたものの米軍による空襲の被害から小学生の学童疎開により生徒数の減少による休校中の三吉小学校を医学専門学校の校舎に転用したものである。三吉小学校は一九二三年の関東大震災による全市潰滅後に建造された堅牢第一の復興小学校の一校であり建築学上にも貴重な建造物であった。
戦後、横浜医学専門学校は医科大学に昇格し教育制度の改革により市立大学医学部となり更に大学院の認可にあたり医学部本館が建設された。
以来、現在の金沢区福浦へ一九八七年の移転迄の間、三十八年に亘って横浜市のみならず神奈川県下でも唯一の効率医育機関として三千五百名の卒業生を送り出してきた。特に毎年の卒業生の大半は横浜市内に於て医療・医学お研究に従事し地域への貢献は高く評価され、また国内外の大学や研究機関などで活躍している人材も多く輩出している。
医学教育に必須の附属病院としては米国の寄金により建設されていた隣接する横浜同愛記念病院を含めて浦舟町の横浜市十全醫院を使用していたが、福浦キャンパスへの移転に伴い附属病院を設置したため一九九九年に附属市民総合医療センターとして新築開院された。その沿革は、一八七一年中区弁天通りに早矢仕有的による仮病院を嚆矢として以来、百四十余年に亘り名称が異なりながら横浜市十全醫院として広く市民に愛され続けてきた歴史を持ち、とくに第二次大戦時の焼夷弾爆撃からの延焼を守った医学専門学校生との活躍が語り継がれている。
今茲に福浦移転後二十有余年を経て在りし日の横浜市立三吉小学校・横浜市十全醫院の存在が現在の横浜市立大学医学部の発展に連なったことに思いを致し、記念の碑を建立し今後の更なる発展を希うものである。

二〇一六年六月

横浜市立大学医学部医学科同窓会倶進会

地図

地図

南区浦舟町2丁目 付近 [ストリートビュー]