粟田焼 発祥之地
あわたやきはっしょうのち
平安神宮から神宮道を南に下り, 三条通りにぶつかって1ブロック東に進むと, 粟田神社の参道がある。この細い道の入口近く,「粟田神社」の石標の隣に 「粟田焼発祥之地」 と刻まれた石碑が建っている。
この石標は粟田口界隈が粟田焼発祥地 であることを示している。この付近 蹴上から白川橋あたりまでは「粟田口」と呼ばれ, 京都に出入りする七口(関所)の一つであった。
粟田焼は京焼の一種で, 寛永のはじめ頃三文字屋九右衛門が瀬戸より来て粟田口三条に窯を造ったのに始まるといわれる。初期は銹絵・染付陶器を生産したが,野々村仁清が上絵付色絵陶器を完成した後は色絵の高級陶器を焼く代表的窯場となった。しかし明治維新後は衰微し, 京焼はここより南の東山山麓に沿って「清水焼」 として発展した。
写真
碑文
粟田焼發祥之地
平成元年十月吉日
青蓮院門主 慈洽書
粟田焼保存研究会建之