大覚寺 発祥の地
だいかくじはっしょうのち
山陽電鉄 山陽網干駅 西にある送電鉄塔の足下に、碑が建つ。
天台宗の僧 隆禅上人は、天福元年(1233) に現在の大覚寺より3kmほど北の砂山という地に「釈迦堂」があり、ここに入って残りの生涯を念仏に明け暮れたと伝えられるが、当地から大覚寺は1kmほどしかない。
永正年間(1504~1521) に真言宗から浄土宗に転宗、天文三年(1534) 赤松氏の乱で堂宇を焼失。当時第七代住職である空鑒尭淳上人は、寺の再建を発願し一字三礼の阿弥陀経を書写し、仏法を広めるのに適した土地を求めていた折、弘治年間(1555~1558) 一羽の白い鶴が飛来。浜辺にあった三宝荒神社の大きな松の木にとまったので、現在地 興浜に遷し、白鶴の奇瑞を永く後世に伝えるために、山号を『鶴立山』、寺号を『大覚寺』と改めた。
写真
碑文
大覺寺発祥の地
大覚寺は往昔鶴林山光接院と号す天福元年(西歴一二三三)定翁隆禅上人この地に開創。天文七年 七代空鑑尭淳上人代に現在の地興浜一五一に移り鶴立山大覚寺と改称す
鶴立山大覚寺
第四十一世 信空玄道
檀徒總代 加納利一
仝 今栄三男
仝 児島 博昭和五十二年十一月建之
(原文まま)