掘抜井戸 発祥の地

ほりぬきいどはっしょうのち

東海道本線 大垣駅から南東に260m。駅前の高島町交差点から250mほど東に入ると,後藤病院の向い側に「こんにゃく屋文七掘抜井戸」と書かれた石碑と,その横に「こんにゃく屋文七 掘抜井戸発祥の地」と書かれた説明板が建っている。

濃尾平野の北端に位置する大垣市は,伊勢湾から40kmも内陸にあるにもかかわらず太古には海であった。ここは揖斐川・長良川などによる土砂の堆積による扇状地として形成された土地である。したがってこの地は川が多くまた地下水も豊かで,場所によっては数メートル掘ると水が湧きだすほどとも言われる。市内には多くの自噴井戸が設けられており,大垣の水のおいしさはマスコミ等で紹介され,近年は多くの人が名水を求めて大垣を訪れているという。

しかし豊かな水をもたらす揖斐川なども,時に異常渇水になることがあり,渇水時には市民が生活用水を確保するのは大変な労力を要した。

江戸時代の中ごろ(天明2年)こんにゃく屋文七が2m程の穴を掘り、そこに5mの材木を打ち込み,その跡へ節を抜いた青竹を打ち込んだところ,その竹の先からきれいな水が噴出してきた。それ以来多くの家で自噴の井戸が掘られるようになったと伝えられる。その大垣の水も,昭和30年代から進出してきた工場による地下水の汲み上げによって水位が低下していたが,現在は地下水の利用規制が効果を現わし,また水利用の工場の減少などもあって,再び各所で自噴井戸が見られるようになっている。

こんにゃく屋さんやおとうふ屋さんは水をたくさん使うので、さぞたいへんな思いをしたことかと感慨深い。

写真

  • 掘抜井戸発祥の地
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  • こんにゃく屋文七掘抜井戸

碑文

伝承地
こんにゃく屋文七
掘抜井戸発祥の地

 大垣地方では,天明年間(1781~1788)頃まで生活用水として,各町の裏通りを流れる用水を利用していた。
 渇水期になり,水が渇れたりすると大垣の三清水といわれた泉(東外側町・清水町・室町)を,多くの人々が使い非常に不便であった。
 天明二年,大垣岐阜町のこんにゃく屋文七が川端に二メートルほどの穴を掘り,その底から五メートルの材木を打ち込み,その跡へ竹を入れるという方法で始めて人工の湧水井戸を掘ることに成功した。これがこの地方における掘抜井戸の始めである。

大垣市教育委員会

地図

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大垣市岐阜町 付近 [ストリートビュー]