石垣いちご 発祥の地

いしがきいちごはっしょうのち

東海道線 清水駅から 南に10km。駿河湾の海岸線に沿って走る 国道150号 久能街道に向かって,久能山表参道の石段を下りてくると, 下りきってすぐ西側(東照宮一の鳥居の内側)に“川島園”といういちご農園があり, そこに「石垣いちご発祥の地」の石碑が建っている。

久能山の南側には 多数のいちご農園が集まっている。 またその多くは いわゆる“観光農園”化していて,シーズンにいちご狩りができる農園は およそ50ヶ所にも達するという。久能地区のいちご栽培は 古くから“石垣栽培”が行なわれていることが特徴である。 この発祥碑は 石垣いちごの栽培技術の開発から70周年を記念して,昭和48年(1973)に建立された

石垣いちごの創始者は 東照宮の車夫をしていた 川島常吉という人物で, 明治29年(1896)に 宮司より一株のいちごの苗をもらい受け,これを植え付け子株を育てる間に, 急傾斜地の石垣(玉石)の間に植えると 冬季においても石の輻射熱で栽培でき, 甘く香りのある実をつけることを発見した。その後 地道な研究と改良が行なわれ,明治37年(1904)ごろには 石垣栽培の基礎が完成され, 温室栽培などが行なわれない時代だったこともあって,石垣栽培の技術は急速に広まった。さらに 玉石の代わりに コンクリート板を積み上げる方法が開発され, 石垣栽培の面積は急激に増加し 昭和14年頃に最盛期となった。

ところで,石垣いちごの発祥に関しては 川島常吉創始説のほかにも いくつかの説があるという。 上記の川島農園から 2kmほど東の“ストロベリーフィールド”という いちご園で, ここには 自然石に「石垣苺発生之地」と刻まれた石碑が建っていて, 近くには清苺神社という小さい神社もある。

写真

  • 石垣いちご発祥の地
  • 石垣いちご発祥の地 碑文

碑文

石垣いちご発祥の地

 こゝ久能山麓の地に石垣いちごの創始者 川島常吉翁は眠る石垣いちごの栽培は天恵の自然 環境の中で七十余年の歳月を経過した
 明治三十三年久能山東照宮ゝ司松平健雄が転任 のさい地元の川島翁がもらったいちごの蔓が 石垣へはい上って早く赤熟したのに教えられ 翌年数十本を石垣に植えたのがはじまりで,そ のゝち発展の基礎を築いたのは石垣半助である
 そのころ増の萩原清作も石垣いちごの栽培 普及につとめ新谷啓太郎と共に大正十二年コンクリート 板を発明したので大きな進展をとげた
 第二次世界大戦により石垣いちごの栽培は一時 中止したが戦後復活し二宮敬治の高冷地育苗の 開発により今日の隆昌を見るに至った
 思うに久能石垣いちごは永年にわたる諸先輩 の努力のたまものである こゝにその功績を たゝえ 石垣いちご発祥の地に碑を建てその 由来を刻して後世に伝える

昭和四十八年三月二十六日

 会長 石垣いちご七十周年記念事業委員会
       静岡市議会議長 石川 與蔵
  題字   静岡市長    萩野 準平
  撰文謹書 久能山東照宮司 白井 光男

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