日本初の民営洋式造船所 発祥の地

にっぽんはつのみんえいようしきぞうせんじょはっしょうのち

隅田川にかかる中央大橋を渡って佃島に入ると, すぐ左(東)側に 川沿いの 「石川島公園」が広がる。高層アパート群を東側に回り込むと 散歩道に発祥碑が建っている。

碑文に書かれている通り, この地は かつて石川島重工業の佃工場があった場所。昭和48年(1973) に起ったオイルショックにより高度経済成長は終焉を迎え, 石川島重工業創業の地である佃工場では, 製品の大型化や 周辺環境の変化に伴い 操業に問題が生ずるようになり, 工場の集約・再編のため昭和54年(1979) に佃工場を閉鎖。 ここに佃工場126年の歴史は幕を閉じた。

その後 跡地は 三井不動産・日本住宅公団に売却され, 「大川端リバーシティー」として 高層アパート群として生まれ変わった。

写真

  • 民営洋式造船所発祥の地
  • 民営洋式造船所発祥の地 碑文
  • 民営洋式造船所発祥の地

碑文

日本初の民営洋式造船所 発祥の地

米国ペリー艦隊が来航した1853年(嘉永6年) 幕府の命を受けた水戸藩がこの地に石川島造船所を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ, 日本人によって設計, 建造された最初の蒸気軍艦「千代田形」など数多の艦船を次々と建造, 造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。
明治維新後の1876年(明治9年) 平野 富二により わが国初の民営洋式造船所として再スタートし, その後1889年(明治22年)に は 渋沢 栄一などの協力により会社組織となり, 有限責任石川島造船所, 株式会社東京石川島造船所の社名の下, 明治から大正・昭和にかけて, 多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は 1939年(昭和14年)造船部門の東京深川区豊洲への移設によって幕を閉じた。
その後, 石川島重工業株式会社, 石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で, 当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが, 1979年(昭和54年)の工場大移転により,その長い歴史を終えた。

地図

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中央区佃2丁目 付近 [ストリートビュー]