身延山 久遠寺 発祥の地

みのぶさんくおんじはっしょうのち

身延(みのぶ)線 身延駅から北西に4Km。久遠(くおん)寺(南巨摩郡身延町身延3567)の本堂から西に500mの“西谷”と呼ばれる場所に久遠寺が設置した「御草庵跡」の碑と、教育委員会が設置した「日蓮聖人御草庵跡」という2つの碑が建っている。

身延山久遠寺は日蓮上人が開創した寺。日蓮は1222年房総 小湊で誕生。比叡山・高野山で学び、「南無妙法蓮華経」を唱えることを第一として布教をはじめる。その後鎌倉で布教を開始。疫病や天災が相次ぐ中3度にわたり幕府に諫言したが受け入れられず、逆に幕府や他宗の僧たちにより迫害を受ける。

弘長元年(1261) 伊豆国伊東へ流罪、文永8年(1271) 佐渡へ流されるが、赦免されて文永11年(1274) に身延山に入山。鷹取山ふもとの西谷に構えた草庵に住み足かけ9年にわたり法華経を読み門弟たちの教導に終始した。弘安4年(1281) 本格的な堂宇を建築して「身延山久遠寺」と命名。弘安5年(1282) 病気療養と両親の墓参のために常陸に向かったが、その途上武蔵の国池上(現在の池上本門寺)にて61年の生涯を閉じた。

身延山久遠寺はその後、六老僧の一人日向上人が継承し、約200年後に第11世日朝上人により現在の地へと移転した。

写真

  • 草庵跡
  • 身延山久遠寺発祥の地
  • 草庵跡
  • 身延山久遠寺発祥の地(2023)
  • 日蓮聖人御草庵跡(2023)
  • 日蓮聖人御草庵跡(2023)
  • 報恩橋(2023)

碑文

御草庵跡

文永十一年(1274)に身延山へ入られた日蓮聖人は、6月17日に南部實長なんぶさねなが(波木井)公のご丹精になる御草庵へ住まわれ「昼はひねもすに一乗教典いちじょうみょうでん御法みのり論談ろんだんし、夜はよもすがら要文誦持ようもんじゅじの声のみす」と書き残されているような明け暮れを送られたが、弘安四年(1281)に至り十間四面にひさしをつけたお堂に造りかえられて、これに住まわれました。石の玉垣で囲まれた区域がその跡である。このところこそ日蓮大聖人が九ヶ年ご在住になり「墓をは身延の山に立てさせ給へ。未来際みらいさいまでも心は身延山に住むべく候」と遺言せられて墓を築かれた聖地で、身延山みのぶさん久遠寺くおんじ発祥の地である。石の玉垣は旧姫路藩酒井公の夫人顕寿院殿けんじゅいんでんの寄進になるところである。

The Site of Hermitage of Nichiren-Shonin

Nichiren-Shonin started to live in the hermitage within Mt. Minobu from June 17th, 1274, which was the under patronage of Lord Sanenaga Hakii. According to Nichiren-Shonin's writing, he told us, "I always discuss the noble teaching of the Lotus Sutra (Hokekyo) in the morning, and I chant the Lotus Sutra in the ecening". The hermitage has been renewed to the 20m × 20m square hall with a roof. The area surrounded by stone walls is the site of the hermitage. This site of Nichiren-Shonin's hermitage is the sacred place as the origin of Minobusan Kuonji Temple. Nichiren-Shonin lived in the hermitage for 9 years. He told us, "Please build my grave in Mt. Minobu. My mind will be always here in Mt. Minobu". The stone walls around the hermitage were donated by Lady Kenju-Inden, wife of Lord Sakai of Himeji Prefecture.

県指定史跡

日蓮聖人御草庵跡

昭和三十四年二月九日指定
身延町身延三六二八番地
身延山久遠寺所有

 この御草庵跡は、一八・一八メートル四方で、日蓮聖人が文永十一年六月十七日より弘安五年九月八日までの九年間、時には厳寒と戦い、時には飢餓に耐えながら、昼は終日門下の教養に努め、また法華経の深旨を論談し、夜は深夜まで法華経要文の読誦と著述に励まれた聖地である。
  聖人はこの御生活に満足なされ
    たちわたる身のうき雲も晴ぬべし
      たえぬみのりの鷲の山風
と詠じ給いて、法悦歓喜の安住を表されております。

昭和五十一年五月一日

身延町教育委員会

地図

地図

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