本町「農業発祥の地」

のうぎょうはっしょうのち

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北海道東部、知床半島と根室半島の間の泊湾に鎌のような形に突き出た野付半島の真ん中あたりに、ネイチャーセンターがある。ネイチャーセンターのすぐ向こうに「野付半島」と刻まれた立派な石碑があり、碑文には「本町『農業発祥の地』でもある」と記されている。

写真


碑文

野付半島

野付半島は、元禄年間に開設された、キイタップ(霧多布)場所に含まれ、松前藩政下の天明年間には子モロ(根室)場所のニシン漁場の一つとして開けた。寛政十一年(一七九九年)に駅家が置かれ、国後島への渡航の拠点となる。
松浦武四郎の「知床日誌」によれば、藤野喜兵衛の漁場支配人加賀屋伝蔵が安政五年(一八五八年)には、すでにこの半島のヲンネニクル(現オンニクリ)に雑穀、野菜類二十七品を植種、本町「農業発祥の地」でもある
大正十年九月十八日に、野付半島を訪ずれた文豪大町桂月は「北海道に遊びてここに至らば、先づ北海道の山水の堂に上りたりというべき也。」と絶賛。
昭和三十七年十二月に「野付風連道立自然公園」に指定され、その雄大な自然豊富な植物、他に類のない鳥類の平井は、人々の感動するところとなり、全国に脚光を浴びることとなった。
突端部近くには、幕末の墓石が草むらの中に残され、その一基は「嘉永二酉五月二十八日箱館芝田秀三郎墓」と読め、永く語り伝えられている、幻の集落「キラク」の名残をとどめる。
この半島を中心としたサケ漁などの沿岸漁業は、めざましい発展をとげ、昭和六十年には、一万六、七二三トンを水揚げ、六十六億六、二三七万円を取り扱うまでになった。
日本の固有の領土たる国後島は、ここから、わずか十六キロメートルの位置にある。
今は、異郷の島が指呼の対岸に望めるのも野付半島ならではのこと。
尾岱沼の開基百年に当り、野付半島の由来と歴史の一端を後世に伝えるため、ここに本碑を建立する。

昭和六十一年十一月三日

「野付半島」の碑、建立期成会

地図

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野付郡別海町野付 付近 [ストリートビュー]