小倉餡 発祥の地

おぐらあんはっしょうのち

嵯峨野線 嵯峨嵐山駅の西 約1km。天台宗 小倉山 ニ尊院の総門を入り広い参道“紅葉の馬場”を進む。 左手に唐門(勅使門)を経て本堂があるが, ここは右手に進み八社宮手前を左に入ると, 大きな“茅の輪”をかたどったような金属のモニュメント(平安遷都千二百年記念の彫刻)と並んで 「小倉餡発祥の地」と刻まれた石碑が建っている。

なお, 二尊院の総門から北の道路脇に, 「小倉餡発祥の碑 二尊院山内」と記され矢印が書かれたあまり大きくない石碑が建っている。この碑を先に見てしまうと, これが小倉餡発祥の地かと思ってしまうが, これは“二尊院の境内に行けば発祥碑がある”という意味の“案内碑”らしく、非常にまぎらわしい。

また、落柿舎近くの農地の隅に、同内容の札が建っている

写真

  • 二尊院総門
  • 小倉餡発祥之地
  • 小倉餡発祥之地
  • 小倉餡発祥之地 背面 碑文
  • 小倉餡発祥の碑を案内する標柱

碑文

小倉餡発祥の地

小倉餡発祥の由来

 日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間もなくの八百二十年の ことであります。
 当時, このあたり小倉の里に和三郎という菓子職人がいて, 亀の子せんべいを作って いましたが八百九年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し, それに御所から 下賜された砂糖を加え, 煮つめて餡を作り, これを毎年御所に献上されました。 その後, この和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培され, 江戸時代には茶道の 菓子にも用いられ, ハレの料理にも加えられるようになりました。
 和三郎は承和七年二月二日(840年)に亡くなりましたが, その子孫並びに 諸国同業の人々がその功績をたたえて 小倉中字愛宕ダイショウの里に一社を建て, 朝廷の允許を得て, 屋号が亀屋和泉でありましたので, 和泉明神としてまつられる ようになりました。
 その後年月を経て明神の社は兵火に焼かれ, 子孫も絶えて, 只古老の伝承として伝え られてきましたが, 昭和二十三年三月に嵯峨商工研究会の席上にて藤本達造氏を含め 高桑義正, 鈴木広政, 都田左兵衛(五代), 中路明の諸氏の方々から此の伝承が確認 されています。
 今ここに創業二百年を記念してこの碑を建立することにより, 小倉餡の歴史を 解明する端緒となれば幸いです。

平成十七年三月六日

井筒八ツ橋本舗 六代 津田佐兵衛建之

地図

地図

京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町 付近