小倉餡 発祥の由来

おぐらあんはっしょうのゆらい

二尊院総門から200m南に落柿舎らくししゃがある。落柿舎の向い側は広々とした畑になっていて, その北西隅に高札風の説明板が建っている。

説明文の内容は、二尊院の石碑の設置者と同一人物が同じことを語っているので碑文とほとんど変わらない。

嵯峨野の寺巡りは, たてこんだ民家の間を通って 狭い道をたどることになるが, ここ落柿舎の前だけは 広々とした畑になっていて, 落ちついた空間が広がり, 大変気持ちがいい。この畑は 京都市が買い取って 昔ながらの景観を保存しているとのことで, 周辺の電線類も地下に隠されているとか。またここは 小豆畑のようで「小倉大納言 実験農場」という説明板も見られる。

小倉餡発祥の地

写真

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碑文

小倉餡おぐらあん発祥の由来

 日本で始めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは 京都に於いて平安京ができて間もなくの 820年頃のことであります 当時 京の このあたり小倉の里に亀の甲せんべいを作って いる和三郎という人がいて 809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培しそれに御所から下賜された砂糖を加え 煮つめて餡を作りま した これを毎年御所に献上しました こうした菓子は極めて高価で珍しいものでありましたので 一般の庶民の口には入りませんでしたがこの和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され 江戸時代には茶道の菓子となり 又一方では祝飯として ハレの料理にも加えられるようになりました
 更に空海は中国の亀の甲煎餅の技術も伝授し京菓子の技術は日本の和菓子の源流となりました
 和三郎は承和7年2月2日(840年)に なくなりましたが その子孫並びに諸国同業の人びとがその功績をたたえて 小倉中 字愛宕「ダイショウ」の里に 一社を建て朝廷の允許を得て 屋号が亀屋和泉でありましたので 和泉明神としてまつられるようになりました
 その後 年月を経て明神の社は兵火に焼かれ子孫も絶えて 只古老の伝承として 小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられています。

都田佐兵衛(六代)記

地図

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京都市右京区嵯峨小倉山小倉町 付近 [ストリートビュー]