寒河江の 水練 発祥の地
さがえのすいれんはっしょうのち
前回訪問時に冠水してよくわからなかったところを見学
— びくにゃん🦙 (@vicuna1682) October 20, 2024
寒河江地区の学校水泳発祥の地らしい
大正期辺りに飛び込み台とかターニングポイント設置されてたらしいけど、人工物ぽい地形がそれか?
私は寒河江市~https://t.co/omXL9W1wbA、岩鼻にいました pic.twitter.com/f7pwC0fvHN
写真
碑文
最上川岩鼻
水練源
最上川中流域に位置し、自然景観に恵まれたこの岩鼻(いわんばな)は、寒河江の水練発祥の地(源)として、多くの人々から愛されてきました。元々は、高さ十数メートルの巨岩が鼻のように川の中央まで突き出ていたことから岩鼻と呼ばれたようです。
大正十五年に旧制寒河江中学(現寒河江高等学校)の水泳部関係者により飛込台とターニング台が設置され、さらに監視船と町営の監視人が配置されたのが岩鼻水練場の始まりです。同年九月には第一回水泳大会が開催され、古式泳法(水府流太田派)を披露、露店も出店し大勢の町民が観客として詰め掛けました。この水泳大会は、当時、八幡神社の例大祭に次ぐ町の一大行事で、三〇〇〇人の観客があったとの記録もあります。
以来、この岩鼻は寒中河童の水練場として、町民の水泳場として、昭和三十九年の寒河江高等学校プール完成まで四十年にわたり親しまれました。この間、古式泳法 及び競泳の修練に励み、多くの名選手を輩出しました。また、増水による最上川の逆巻く激流で幾度となくターニング台が流され、その度に部員たちが探し回り、組み立てるといった苦労もありました。
現在、当地区で伝承している水府流太田派は、水戸藩水術に端を発し、幕末に太田捨蔵氏により確立された流派で、大正十二年に鶴岡の地から寒中水泳部に伝えられました。そして、この岩鼻で脈々と受け継がれ、昭和二十一年には水府流太田派第四代師範の本田存氏を招聘、この場所で指導を仰ぐことが出来ました。その後、水交会(寒河江高校水泳部OB会)及び寒河江西村山地区水泳連盟で伝承、平成十五年には、第八代師範山口和男氏の指導を仰いでおります。
岩鼻水連場が無くなって四十数年が経過しており、過ぎし歳月は岩盤を侵食し、今では当時の岩鼻の雄姿を見ることはできなくなりました。そこで、いずれは面影さえもなくなってしまうであろうこの岩鼻を寒河江の水泳の聖地「水連源」として、併せて、最上川の遺跡の一つとして将来に伝えるべく、ここに石碑として留めます。平成二十一年三月吉日
寒河江水交会