埼玉 緬羊 発祥之地
さいたまめんようはっしょうのち
西武秩父線 西武秩父駅から南東に800m。広大な羊山公園の南西隅,羊山センターの近くに大きな石碑が建っている。
日本では,ヒツジは十二支の“未”として知られていたものの,この動物は中国などからの献上物としてもたらされたことがある程度で,一般庶民が目にすることはない 幻の存在であった。
明治政府は畜産を奨励したため,明治初年に羊毛目的にアメリカから6000頭のヒツジが導入され,主に関東地方以北で飼育されるようになった。特に防寒用の軍服に用いられたこともあって,第一次世界大戦中の大正期および昭和に入ってからも国策としてヒツジの飼育が奨励された。
第二次世界大戦直前での飼育頭数は 18万頭,終戦後 昭和30年代に94万頭まで増加したが,輸入羊毛との価格競争に勝てず,昭和50年代には わずか1万頭まで急減してしまった。現在は 北海道を中心に,わずかな頭数が食肉用として飼育されているのみになっている。
埼玉県においても 農業の多角化の一環としてヒツジの飼育が行われ,昭和10年(1935) にこの地“羊山”で飼育を開始し.終戦後の最盛期には1万頭を数えるまでになった。この碑は昭和23年(1948) に 飼育場の移転に際して,埼玉県の緬羊協会が建立したものである。羊山はその後 公園として開放され,近年は芝桜の名所としてゴールデンウィークなどは大勢の人で賑わっている。
ちなみに,“緬羊(綿羊)”とは 羊毛をとる目的のヒツジのことで,“緬”の字をあてるのは羊毛が縮れて波うつようにみえることから,縮緬(ちりめん=細かなシボリのある絹織物)から文字をとって“緬羊”と呼ばれるようになったという。
写真
碑文
埼玉緬羊発祥之地
大正の中頃より農業経営の衰退著しく国家は挙げて対策に苦慮せり吾等同志は有蓄多角経営に非なければ此の難局を打開し得ずと痛感し飼育の最も簡易にして多量の肥料と衣料及び食糧を得る緬羊飼育を日夜農家に力説せり それが急速なる発展は県緬羊種畜場の新設に依るを最善なりと信じ昭和九年三月秩父郡下町村長郡農会各種団体並に飼育者一同連署を以つて当局に陳情書を提出せり 当局に在りては其の重要性を認むると共に郡下各町村特に秩父町及び飼育者同志の絶大なる努力と協力を得て同十年十月此の地を選び埼玉県立種畜場秩父分場の開設を見た 爾来十数年緬羊智識普及指導に当われ今日県下飼育頭数実に万を数うるに至る
今回大里郡小原村に綜合種蓄場の設置を見るに際し昭和二十三年三月同場に移転せり 本年四月我が緬羊協会に於ては秩父緬羊分場の過去の功績と先輩飼育者同志の開設当時の労苦を追想し此の地に建碑する事を決議し永遠に記念すると共に将来緬羊飼育発展に伴い農村興隆の資に供せんとす昭和二十三年八月
埼玉県緬羊協会長 吉田新一