西洋式 牧畜の 発祥の地

せいようしきぼくちくのはっしょうのち

画像求
撮影:
どなたか見てきてください!

成田線 酒々井駅から東に11km、東関道 E51 酒々井I.C. から東に8km、畑地がどんどん宅地かしているような地域にある神武神社(富里市十倉字両国沖1322-4)裏の広場に大きな石碑があり、説明板等も併設されている。

富里牧羊場は、明治8年(1875)、内務卿大久保利通の主導により、毛織物生産に必要な羊毛の国内自給を図る目的で開設された。アメリカから牧羊家のD.W.アップジョーンズを招聘し、大規模な牧羊経営を目指すなど、政府の大きな期待が寄せられた。

しかし、その道のりは多難であった。明治11年(1878) には、指導者のアップジョーンズが何者かに襲撃され負傷するという事件が発生し、翌年には帰国。同年、大久保利通も暗殺され、牧羊事業を推進する政府内の力が弱まった。

これらの要因が重なり、純粋な牧羊場としての事業継続は困難となる。明治13年(1880) には、下総牧羊場と取香とっこう種畜場が合併し「下総種畜場」と改称され、家畜の品種改良を行う施設となった。さらに明治18年(1885) には宮内庁直轄となり、「下総御料牧場」と改称され、皇室関連の牧場としての役割を果たすことになる。

このように、富里牧羊場は、日本の近代牧畜の夢を背負い開設されたものの、短期間でその姿を変えてきた。

  • 富里市
    https://www.city.tomisato.lg.jp/0000001140.html
  • キャプテン村社
    https://note.com/captain_murasha/n/ne2b215b599a1

写真


碑文

房総の魅力500選

千葉県
「房総の魅力500選」は、昭和58年に千葉県の人口が500万人に達したのを記念し、魅力あるふるさとづくりの一環として昭和61年1月に選定されたものです。

富里牧羊場跡

明治8年、殖産興業の一つとして、毛織物の原料となる羊毛の国内自給を図るため、わが国で初めての牧羊場が富里町の十倉、七栄などに開設されました。明治13年には、付近の取香種畜場と合併し、下総種畜場とよばれるようになりました。西洋式牧畜の発祥の地です。

千葉県指定史跡(千史16号)

富里牧羊場跡とみさとぼくようじょうあと

昭和30年12月15日指定

殖産しょくさん興業こうぎょうの一つとして毛織物けおりもの原材料げんざいりょうとなる羊毛ようもう国内こくない需給じゅきゅうはかるため、近代牧畜の必要性をいたとき内務卿󠄁ないむきょう大久保おおくぼ利通としみちは、明治8年(1875年)、国内に適地てきちを求めて調査を行いました。
数ある候補地こうほちの中で、「ここが適地である」と大久保利通に言わしめたのが現在の富里市(十倉とくら七栄ななえ地区)であり、ここに日本初の「牧羊場(下総しもふさ牧羊場ぼくようじょう)」が誕生たんじょうしました。
明治政府は、牧羊場の管理事務所を両国りょうごく地区に置き、また、国内初のこころみであったことから、アメリカ人牧羊家のD.W.アップジョーンズをまねき、羊の飼育しいく仕方しかたなどの指導しどうを受けて経営けいえいを開始しました。しかし、明治11年8月29日の夜、ジョーンズは牧羊場の官舎かんしゃぞくおそわれて重傷じゅうしょうい、よく12年には退職たいしょくするという不幸な出来事が起こってしまいます。
このことがわざわいし、下総牧羊場は当初の計画通りの成果せいかを上げることができないまま、翌13年には「取香とっこう種畜場しゅちくじょう」と合併がっぺいすることとなり、名称めいしょうも「下総種畜場」に改められ、短い牧羊場経営にまくろされました。また、明治18年(1885年)には帝室ていしつ宮内省くないしょう)に属することとなり、明治21年(1888年)には「下総御料牧場」と改称かいしょうされることとなります。
その後、幾度いくどかの名称変更が行われ、昭和17年には再び「下総御料牧場」の名称が用いられることとなりますが、昭和41年、この地に新東京国際空港(現成田空港)の建設が計画されたことにより、下総台地における大規模牧場経営の歴史に終止符しゅうしふが打たれました。
なお、ここに建立こんりゅうされている石碑は、近代牧畜の発祥はっしょうと大久保利通の画期的な計画を顕彰けんしょうして、地元じもと有志ゆうしなどによって建立されたものです。

An Old Sheep Farming Site

In 1875 (Meiji 8) Toshimichi Okubo, who was The Home Secretary, looked for an appropriate place to farm sheep, a necessity to modernise farming in order to produce a domestic supply of raw wool to support an increasing national demand. He looked at many sites and finally settled on Tokura. Nanae, Tomisato City and the first sheep farming field (Shimofusa sheep farming field) was inaugurated in Japan.
This was the first attempt by the Meiji government to manage sheep farming, therefore the government asked D.W Johns an American sheep farmer, to teach them how to breed sheep. The government opened a management office in the Ryogoku section of Tomisato City.
However, on the night of August 29th 1878 (Meiji 11), a thief attacked Johns at his official house and he was seriously injured and the next year he retired from the job.
This made it impossible for the sheep field to produce the results which the government expected: therefore in 1880 (Meiji 13), the sheep field was combined with the "Tokko livestock breeding field" and re-named "Shimofusa livestock breeding field". It was a sheep field for only a brief time. In 1885 (Meiji 18), it was taken over by the Imperial Household Agency and re-named "Shimofusa Goryo ranch" in 1888 (Meiji 21).
After that, the name often changed and in 1941 (Showa 17) it was called "Shimofusa Goryo ranch" again. However, in 1966 (Showa 41), this site was included in the plan to construct the new Tokyo International Airport (Narita airport). This was the end of the huge ranch on the Shimofusa tableland.
This monument was constructed by local volunteers to celebrate Okubo's epoch-making plan and the origin of modern farming in the northern Boso area.

千葉県教育委員会/富里市教育委員会
Chiba prefectureal Board of Education / Tomisato Board of Education

日本語の「D.W.アップジョーンズ」と英語の「D.W Johns」と名前が変わっているが同一人物かどうか資料が見つけられない。

地図

地図

P988+H7V 富里市、千葉県 付近 [ストリートビュー]