戦後 開拓 発祥之地

せんごかいたくはっしょうのち

 
撮影:
2025年3月(写真 まさ・なち さん)

東北新幹線・東北本線 新白河駅から北西に10.5km、東北自動車道 E4 白河I.C.から北西に9km、国道289号から西郷村立 川谷小学校に至る入り口の近くに石碑が並んでいる広場がある。そのうちのひとつが、戦後開拓発祥之地碑で、副碑も並んでいる。

当地は太平洋戦争後の日本における農地改革と開拓政策の先駆的な地である。戦後、政府は復員兵や引揚者、生活困窮者の救済と食料増産を目的に、全国各地で開拓事業を推進した。その中でも西郷村は、昭和21年(1946) にいち早く入植が開始され、戦後開拓の第一歩を記した地として知られている。

当時の入植者たちは、森林や原野を自らの手で切り拓き、住宅を建て、農地を整備しながら、新たな生活基盤を築いていった。過酷な自然環境や資材の不足といった困難にも屈せず、協力しながら地域の発展に尽力した。

この開拓の歴史を後世に伝えるため、記念碑が建立された。この碑は、戦後の混乱の中で新たな希望を切り拓いた人々の努力と精神を象徴するものであり、地域の誇りともなっている。西郷村は、戦後開拓の歴史的意義を今に伝える重要な場所といえる。

写真

  • 戦後開拓発祥之地 背面
  • 報徳開拓草創期の沿革
  • 戦後開拓発祥之地

碑文

戦後開拓発祥之地

西郷村長 佐藤正博 書

入植六十五周年記念

平成二十二年六月吉日
白川報徳開拓記念碑管理会建之

報徳開拓草創期の沿革

昭和二十年八月十五日(一九四五)大二次世界大戦終戦直後復員する軍人の受け入れ態勢について、旧陸、海軍の後身である補導会の本庄将軍から、元満蒙開拓青年少年義勇軍(以下義勇軍という)訓練所長の加藤完治先生 (以下加藤先生という)に、旧陸軍軍馬補充部・演習所などに復員軍人の入植を行う計画を樹てるに当たり、この営農指導についての会談の結果、加藤先生は自ら所長でもあった満蒙開拓指導員養成所の生徒の中から、今後一切の身の振り方を加藤先生に任せるという生徒六十余名を得た。終戦時の困難なる国の要請に応えるため、加藤先生は白河農村建設隊(仮称)の用地選定について、元義勇軍総務部・江坂弥太郎、訓練課長・菅野弘の両氏に現地の調査を依頼した。
昭和二十年九月十一日、江坂と菅野は、現地の責任者、田辺大佐及び高品少佐・ 土井参謀などと協議したが基地の決定には、至らなかった。翌十月一日、菅野課長が再度、白河現地側と協議折衝した結果、芝原分厩以北の地区、の西郷村真船字蒲日向、字小菅、字横川、字高清水の地区七百町歩が決定した、引き続き、菅野課長は、退職軍人補導会副委員長・永井少佐を通じて、軍馬補充部関係の主任官である福間中佐と現地入りの具体的な方策のついて協議した後、現地の演習殿舎などの借り受の手配を終了した。
昭和二十年十月十三日、終戦後わずか六十日にして、白河高原農村建設隊十六名が、記念すべき開拓の第一歩を印した。その後本隊のと到着と共に開拓の鍬音が響き、復員軍人の営農指導に当たる準備は着々と進められたが、占領軍から復員軍人の集団入植を禁ぜられたために、それまでの構想は消滅した。加藤先生と隊員はそのそのままこの地に入植する事を決定し、この地域で祖国再建の為、開拓事業を展開する事となった。
昭和二十一年四月二十九日、白河報徳開拓組合(任意組合)を設立し、全体共同経営の運営が発足した。
昭和二十三年四月二日、農業協同組合法による白河報德開拓農業協同組合が設立された。
昭和二十八年四月、八ヶ年続いた全体共同経営を解体し、各々の経営責任が明確になる、個人経営に移行した。
昭和三十年四月十五日、白河報德開拓農業協同組合と由井ヶ原開拓農業協同組合が地域発展の為、合併を行った。今ここに、報徳開拓六十七年の歴史を顧み、この碑を建立し、報徳開拓草創期の沿革を後世に伝え残すものである。

平成二十四年 十月十三日 建立

参考资料
白河報德開拓誌 序章 胎動~

原文まま

地図

地図

西郷村真船蒲日向 付近 [ストリートビュー]