杉原紙 発祥之地
すぎはらがみはっしょうのち
多可町の道の駅 R427かみ の裏,杉原川の対岸に“杉原紙研究所”がある。研究所の前に「杉原紙発祥之地」と刻まれた茶色い石碑と,「杉原紙復元の碑」という黒い石碑が並んで建っている。
杉原紙(=椙原紙)は,播磨国杉原谷(現在の兵庫県多可町)で生産された和紙。歴史は古く,平安時代の文献には既に“椙原紙”の名前が見られる。
紙漉きの技術が日本に伝えられたのは,6世紀ごろと推測されているが,奈良時代には“図書寮”という組織で官営の製紙所が設置され,やがて紙の需要が拡大すると 播磨・美濃・信濃など各地で生産が開始された。本格的に普及したのは鎌倉時代に入ってからで,“武士は椙原紙以外の紙を使用してはならない”とまで言われるようになった。さらに室町時代まで下ると紙の需要は増え続け,全国各地で“○○杉原”という紙が作られるようになり,杉原紙は一般名詞となっていった。しかし 献上品などの別格の高級品は杉原谷で漉かれた紙に限られていた。
江戸時代には杉原紙は庶民も使用するようになって生産はピークに達し,杉原谷には300軒を越える製紙業者があったと言われる。しかし,一方では原料のコウゾが不足するようになり,コストが上昇して他産地の製品に対抗できなくなり,明治に入って機械漉きの洋紙の製造が始まると,急速に衰退していき,大正末には杉原紙の歴史の幕を閉じられた。
昭和15年(1940),甲南大学の寿岳文章博士が杉原谷村を訪れ,杉原紙がこの地で生産されたことが確認され,郷土史研究家・藤田貞雄氏による杉原紙の紙漉きの再現に成功。昭和47年(1972) に「杉原紙研究所」が設立されて脚光を浴び,兵庫県によって重要無形文化財・伝統的工芸品に指定された。
現在は 道の駅 R247かみ に手漉き和紙の体験コーナーが設けられているほか,町民による杉原紙年賀状コンクールの開催,小学生が自ら漉いた紙を卒業証書に使用するなど,地域ぐるみて杉原紙の伝統を保存する運動が続けられている。
杉原研究所前には説明板が設置されている。
写真
碑文
杉原紙發祥之地
意訳
播州は南にたいへん水運のいい内海を持ち,北に日本の背骨中国山脈を負い,肥沃な平野が広がり,早くから人文が開けたことは,明石原人が発見されたことに象徴されているように明らかである。
製紙についても,奈良時代すでに美紙の産地として聞こえ,平安時代紙屋院(官用の製紙所)の機構が衰えるや,椙原庄紙の名がにわかに都の文献に出るようになる。
最も古いのは関白忠実の日記「殿暦」の永久四年の記事で,実に十二世紀の初頭のことである。この事はおそらく紙を漉くのに適した椙原庄が,近衛家の領地だったことによるのであろう。
それからこの紙は「椙原」または「杉原」と呼ばれ国内を風びし,人々の愛用を受け,中世には紙の品種を示す普通名詞となって連綿と近年にまで続いている。紙の歴史がこのように長いのは他に類のないことであろう。
惜しむらくは現在杉原谷にこの紙を漉く者がいない。そこで歴史を考え,伝統を尊ぶ郷の人々が相談し,恰好の地を選んで杉原紙発祥の碑を建てようとするものである。
播州は私の郷里でもあり,しかも先年杉原紙の源流を尋ね,帝国学士院会員京都大学名誉教授新村出博士に従って入村した縁によって,博士に題字を乞い,私が撰文した。時に昭和四十一年春三月
甲南大学教授・文学博士 寿岳文章
杉原紙研究所
七世紀後半から加美町で漉き始められたという「杉原紙」。平安時代には既に質,生産量とも日本一の名紙として文献にも登場しています。
鎌倉時代には幕府の公用紙として使用され,室町時代には広く一般庶民にも愛用され,その名は全国に広まりました。
加美町の奥深い谷からこんこんと湧き出る冷たく澄んだ水と,雪が舞う厳しい気候風土,そしてそこで育った原料の楮が,杉原紙の風雅な美しさを守り続けてきました。
杉原紙は,大正末期にいったん途絶えましたが,この杉原紙研究所の設立により復活し,昭和58年には兵庫県重要無形文化財,平成5年には兵庫県伝統的工芸品にそれぞれ指定されました。東はりま
加古川 水の新百景