洋紙 発祥之地

ようしはっしょうのち

京浜東北線・東京メトロ 南北線・さくらトラム(都電荒川線)が乗り入れる王子駅前の商業施設サンスクエア脇の放置自転車群の前に, 石碑と説明板が建っている。

ここは 澁澤榮一が 日本で最初の製紙工場を作った場所で, 戦前まで王子製紙の工場が操業していた。

渋沢栄一は欧州を視察し, 明治維新後 大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わり, 退官後 「第一国立銀行」を創設, さらに東京海上火災保険, 東京ガス, 清水建設, 王子製紙, 新日本製鉄, サッポロビール, 帝国ホテル, 日本郵船など 日本を代表する企業の設立に関与し, 生涯に500社もの企業に関わるなど, 超人的な活動をした。

また教育にも情熱を傾け, 一橋大学, 日本女子大, 東京女学院などの学校の設立に奔走したと言われる。


日本銀行券の肖像が澁澤榮一に交替するからなのか、碑の背景の建物の壁面が洋紙発祥を強く訴求するものに改められた。

写真

  • 洋紙発祥之地 駅側から
  • 洋紙発祥之地 碑文
  • 洋紙発祥の碑 説明板
  • 洋紙発祥之地
  • 洋紙発祥の碑説明 (2025)
  • 洋紙発祥之地 (2025)
  • 洋紙発祥之地 (2025)
  • 洋紙発祥之地 (2025)
  • 洋紙発祥之地 (2025)
  • 洋紙発祥之地 (2025)
  • 洋紙発祥之地 (2025)
  • 洋紙発祥の碑説明 背面(2025)
  • 洋紙発祥之地 背面(2025)
  • 洋紙発祥之地 背面(2025)
  • 洋紙発祥之地 背面(2025)
  • 洋紙発祥之地 (2025)

碑文

洋紙發祥㞢地

此地ハ明治五年十一月澁澤榮一ノ發議ニ由リ創立シタル王子製紙株式會社ガ英國ヨリ機械ヲ輸入シ洋紙業ヲ起セシ發祥ノ地ナリ當時此會社ハ資本金拾五萬圓ヲ以テ發足シ同九年畏クモ
明治天皇英照皇太后昭憲皇太后ノ臨幸ヲ仰ギ奉リ東京新名所トシテ一般ノ縱覧スル所トナレリ 同社ハ昭和二十四年八月苫小牧製紙十條製紙本州製紙ノ三社ニ分割スルニ至ルマデ名實共ニ日本洋紙界ノ中心タリキ茲ニ八十年ノ歴史ヲ記念シテ永ク洋紙業發展ノ一里塚トセン

昭和二十八年十月

藤原銀次郎 𧩿
髙島菊次郎 篆額
近藤高美 書

原型 野村公雄
鑄造 岡本謙三

一、主要記事
明治五年十一月
三井組小野組島田組等ニヨリ資本金拾五萬圓ヲ以テ創立
明治六年二月
紙幣寮ノ認可ヲ得抄紙會社ト命名 
明治九年五月
製紙會社ト改稱
明治廿六年十一月
王子製紙株式會社ト改稱
昭和八年五月
王子富士樺太工業三社合併
昭和廿四年八月
王子製紙分割苫小牧十條本州三社發足
二、歴代首脳者
澁澤榮一
自 明治七年一月
至 同 三十一年八月
谷 敬三
自 明治二十六年九月
至 同 二十九年六月
大川平三郎
自 明治二十六年九月
至 同 三十一年八月
藤山雷太
自 明治二十九年六月
至 同 三十五年四月
朝吹英二
自 明治三十五年四月
至 同 四十四年十月
鈴木梅四郎
自 明治三十五年七月
至 同 四十二年十一月
高橋義雄
自 明治四十二年十一月
至 同 四十四年十月
三井得右エ門
自 明治四十四年十月
至 大正九年六月
藤原銀次郎
自 明治四十四年十月
至 昭和十三年十二月
高島菊次郎
自 昭和十三年十二月
至 同 十七年十二月
足立 正
自昭和十七年十二月
至 同 二十一年十一月
中島慶次
自 昭和二十一年十一月
至 同 二十四年八月

昭和二十八年十月建

十條製紙株式會社社長 西 濟

設計監督
肥後八代市
坂田靜夫

創作施工
肥後八代市
鹿島一樹

洋紙発祥の碑

 日本の洋紙生産は, 明治六年(一八七三年)ヨーロッパの先進文明を視察して帰国した渋沢栄一 が「抄紙会社」を設立し、ここ王子に製紙工場を作ったことから始まりました。
 田圃の中、煙を吐くレンガづくりの工場は、当時の錦絵にも描かれ、東京の新名所になりました。その後日本の製紙業に大きな役割を果たしましたが、昭和二十年(一九四五年)、戦災によりその歴史を閉じました。
 この碑は、工場創立八十周年を記念し、昭和28年、その跡地に建てられたものです。

日本製紙株式会社

サンスクエア

錦絵に見る。製紙産業を開化させた渋沢栄一

この錦絵が描かれた明治21年(1888)頃は、渋沢栄一が抄紙会社を製紙業界の先駆者的位置にした全盛期でした。

明治8年(1875)から大正期に王子界隈に出現した製紙関連工場群

「抄紙会社」が開業されると工場が次々と建設され、日本の近代化産業発祥の地となりました。戦後、工場は次々と郊外へ移転し、跡地には団地が建設された地もあります。

豊富な水源石神井川、千川上水が製紙関連工場群を造り、近代産業に導く

千川上水の水は、音無川(石神井川)に流し入れ、この川から水を引き農業用水としていた地元王子と23か村。抄紙会社工場内と国立印刷局内には石神井川上に掛桶(木桶)で渡して千川上水を工場に引いていました。
かつては江戸幕府が滝野川村に反射炉と水車を設置時、石神井川の川幅広げ、川底を下げる掘継ぎ工事が行われていた地域。製紙工場が水路利用するための証書や嘆願書等が多く交わされています。その貴重な資料は紙の博物館に保存されています。

The "Ground Old Man" (a respectable gentleman) is a title representing Shibusawa Eiichi's prominent contribution in private diplomocy, which is given by people all over the world who support international cooperation.

"Grand Old Man"
(伟大的老先生)这一称号源于全世界祈盼国际合作的人们对涩泽荣一的“民间外交”实践
表示一致认可与衷心赞赏

I am ...
グランド・オールド・マン
偉大な老紳士 渋沢栄一

日本最初の近代産業の出発点
「洋紙発祥の地 王子」

幕末から明治・大正・昭和の世の中を動かし飛鳥山に住み、世界にビジョンを発信し続けた「日本資本主義の父」

渋沢栄一は明治維新後、訪れたパリ万国博覧会で「日本の近代化産業を盛んにするため知識を高める新聞などの印刷物の普及が必要であり、洋紙製造事業をすべき」と考え、江戸時代からの両替商三井組・小野組・島田組に、資本を集めて製紙業を起業するよう説得。自ら代表取締役となり、欧州で学んだ「合本組織」による「抄紙会社」洋紙製造工場をスタートさせました。

日本初の洋紙製造工場が誕生した地

明治8年6月には洋紙工場が完成し操業、12月には開業式を挙行しました。翌年、大蔵省印刷局抄紙部の工場が隣接地に設置され、社名を「製紙会社」に改称。その後、明治26年には王子製紙㈱王子工場となり操業を続けました。しかし、第二次大戦中の昭和20年4月、工場一帯は王子地区への東京大空襲で大部分が戦火で焼失し閉鎖。戦後、24年に占領政策で王子製紙は苫小牧製紙、十條製紙、本州製紙の3社に分割。工場は十條製紙が引き継ぎ、昭和47年工場跡地に十條ボウルがオープン。平成5年には、日本製紙㈱となり、歴史的産業遺産として継承しています。

近代産業の条件を満たした歴史的産業遺産の地

渋沢栄一の近代産業の地の条件に叶っていたのは、豊富な水源と工場思想の情報発信ができる東京近郊の場所で、江戸の観光名所・風光明媚な王子・飛鳥山・滝野川でした。水源は石神井川(音無川)、千川上水を利用、物資運搬も船で石神井川から荒川(現・隅田川)へ。製紙会社が操業すると近代化・産業化が隆盛となり工場群ができ、人達が集まり、店ができ、王子は近代産業の中心地となり浮世絵にも描かれています。
渋沢栄一も飛鳥山に住み民間外交の場とし、晩年は国際協調を願う世界中の人達から“グランド・オールド・マン”(偉大な老紳士)と讃えられました。往事の足跡は飛鳥山3つの博物館で偲べます。

地図

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北区王子1丁目 付近 [ストリートビュー]