浅草 酉乃市 起源 發祥乃神社

あさくさとりのいちきげんはっしょうのじんじゃ

地下鉄日比谷線 入谷駅から 北東に700m。国際通りに面して 鷲神社と長国寺が南北に並んでいる。おおとり神社の参道入口に『浅草「酉の祭」「酉の市」起源発祥の神社』という碑が建っている。

浅草酉の市については、「浅草酉の市発祥の寺」をご参照ください。

写真

  • 酉の市起源発祥の神社
  • 酉の市起源発祥の神社
  • 鷲神社 鳥居

碑文

浅草酉乃市起源發祥乃神社

浅草「酉のまち」「酉の市」起源発祥の神社

「おとりさま」・おおとり神社とわし大明神

 おおとり神社は江戸時代以前より此の地にまつられ,江戸時代は鷲大明神社と号し,福運を招き,強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられ,大明神と伝われるとおり神様をおまつりしてあります。
 鷲大明神は天日鷲命あめのひわしのみことと申され,開運・商賣繁昌にあらたかな神として古くから崇敬されております。
 その発祥は景行天皇の御代,日本武尊が東夷征討の時,鷲大明神社(鳥のやしろ)に立ち寄られ,戦勝を祈願し,志をとげての帰途社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い,お礼参りをされました。その日が十一月の酉の日であったので,この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「酉のまち」則ち「酉の市」の起源・発祥です。
 その后,日本武尊が併せまつられ,浅草「酉の祭」「酉の市」は次第に賑わいを増し,酉の市に商われる縁起熊手も年毎に人気となり,江戸の庶民の春(正月)をむかえる行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。特に吉原遊廓の隆盛と共に賑わい「吉原のおとりさま」とも云われました。  江戸時代からまつられている「鷲大明神」天日鷲命は,鷲の背に乗るお姿から「鷲大明神・おとりさま」といわれ,江戸の数々の火事,関東大震災,第二次大戦の戦禍にもお守りされ,三百年以上にわたり鷲神社に安置されております。天日鷲命は,「東都歳時記」に“開運の守護神なり”とあり,日本武尊と共に福運・強運・商売繁昌・武運を司どる神様として厚く信仰されております。

「酉の祭」「酉の一」

 歳末にあたり一年を神に感謝し,新年を迎えるにあたり福運を願う祭りである浅草「酉の市」は,江戸の昔の華やかさとその伝統を今に伝えると共に多くの善男善女の厚い信仰を集め,今に受け継がれております。
 「酉の市」は江戸時代には「酉の祭」とよばれ,人と神が和楽する祭りを意味しております。
 又,「市」は「いつく」で神様をおまつりするために「身を清めてつつしむ」ということです。
 このように「祭」・「市」も本来は「清浄な神祭かみまつり」を表しております。縁起熊手にも神社で使われる四手しで(神で作った四垂れよたれ)や神様をまつる場所であることを示す注連縄がつけられております。
 この事からも「酉の市」の「市」は神社の御祭神と参詣する多くの善男善女の人々が共に和み楽しむ神社の祭を表しており,佛教・寺とは何のかかわりのない祭なのです。
 江戸時代の「酉の市」は鷲大明神社(鷲神社)として開かれており,当時は神佛混淆といい神社と寺が一緒に運営されておりました。別当長國寺(別当とは単に僧侶が神主をかねる僧職の事。)は寛文九年に元鳥越より現在の所に移転して鷲大明神社(鷲神社)の別当となりました。
 明治元年「神仏分離令」が出され,鷲大明神社と長國寺は分離されることになり,長國寺の別当を廃し,鷲大明神社は,社号を鷲神社と改め,当時の長國寺住職・田中常繁氏は鷲神社神主となり,本来の姿になったのです。
 その后,長國寺は明治四十三年,それまでの山号の本立山を鷲在山じゅざいさんと改めており,更に大正十二年の関東大震災后に南向きの本堂を鷲神社と同じ西向きに改めております。
 このように「鷲大明神社」「鷲大明神」といわれるように「おとりさま」は神様をおまつりする神社であり,その御由緒により十一月の酉の日に「酉の市」が斉行され多人の参詣者が集い,鮮やかな感動をよび,人と祭りのふれあいを感じさせるのです。

浅草田圃 「酉の市 御本社」鷲神社

地図

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台東区千束3丁目 付近 [ストリートビュー]