別府温泉 発祥の地

べっぷおんせんはっしょうのち

日本には温泉の数は数えられないほどたくさんあるが,別府温泉郷は 源泉の数と温泉の湧出量で日本一とされる。 別府には 別府・鉄輪・明礬・観海寺・亀川・柴石・堀田・浜脇と名づけられた温泉群があり “別府八湯”と呼ばれる。

「別府温泉」とは,狭い意味では 別府八湯の中の一つの温泉の名前であるが,広義には 別府の温泉の総称としての “別府温泉郷”のことを指す場合がある。浜脇温泉が「別府温泉発祥の地」という時の「別府温泉」は「別府温泉郷」の意味であろう。

“浜脇温泉”は 東別府駅近辺から海岸までの一帯に湧き出る温泉を指していて, 海岸の浜から温泉が湧していたことから「浜湧き(ハマワキ)」の名前がつけられたという。鎌倉時代には既にに湯治場があったとの記録が残っていて,江戸・明治の時代には 豊富な湯量に支えられて,庶民の湯治場として広く知られるようになった。しかし 大正時代を境に湧出量が減少し,施設の老朽化もあって 衰退傾向にあった。このため 昭和の末期に大規模な再開発が計画され,小規模な旅館や歓楽街を整理して道路のつけ替えなどを行い,平成3年(1991)に再開発が完了した。浜脇温泉には 今も路地裏に花街の名残をとどめてはいるが,共同浴場「浜脇温泉」とクアハウス「湯都ピア浜脇」を中心とする現代的な雰囲気に生まれ変わった。

日豊本線 東別府駅から北西に300m。朝見川に架かる中島橋の南側に,共同浴場“浜脇温泉”と複合温泉施設 湯都ピア浜脇(別府市浜脇1丁目8-20)があり, それらに面して“浜脇温泉広場”がある。広場の一角に「別府温泉発祥の地 浜脇」と書かれた大きな看板が掲げられている。

「別府温泉発祥の地 浜脇」の看板には,再開発前の町の様子を示す写真や 当時の地図が掲示されている。 また、浜脇温泉広場の入口には石のアーチがモニュメントとして建っているが,これは かつてこの場所にあった 「浜脇温泉」と「浜脇高等温泉」のコンクリート造の建物の出入口にあったアーチを そのままの形で 再建したものとのこと。

写真

  • 浜脇温泉広場
  • 浜脇温泉広場
  • 別府温泉発祥の地

碑文

別府温泉発祥の地 浜脇
The Birthplace of Beppu Hot Springs.

ツーリズム浜脇まちづくり推進協議会

脇浜温泉の由来
□脇浜は別府温泉発祥の地である。

脇浜の語源は、そもそも「浜湧き」と言われ、古代、脇浜地区の海岸線は、至る所で温泉が湧出していた。
その歴史は古く、人々に親しまれてきた。鎌倉時代初期には、温泉場としての発展を急速に進める。
江戸時代になると、この地はいよいよ温泉町・港町・門前町・陸上交通の要所としての様相を明らかにしてくる。この4つの正確から江戸時代末に、この地は別府湾沿岸の集落中、最大の歓楽郷を現出するに至る。
明治の頃も本地区は極めて豊富な温泉に恵まれ、湧出は東方砂浜海岸にも数多く存し、海岸砂場は大正の頃まで近郷の村人が使用していた。
ところが盛況を誇っていた浜脇温泉が、大正10年頃を境にして、次第に湧出量が減り、脇浜海岸線埋め立て後は海岸砂場はもちろん、その他の諸温泉が停止、または減少して現在にいたっており、今では引き湯等も行われている。また歓楽街としても戦後の時代の流れに取り残されるようになった。
湧出量の減少と、温泉町として再生していくために、浜脇A街区第一種市街地再開発事業により温泉発祥の地 浜脇 が生まれ変わったものである。

温泉広場のタイル、アーチについて

昭和3年、西側に浜脇温泉、東側に浜脇高等温泉が当時の金で10万円で建設されしかも鉄筋コンクリート造の浴場は日本で初めてと言われている。設計は別府市技師 池田三比古氏 の手でおこなわれ、また、建物は日本建築学会「鉄筋コンクリート構造計算基準(昭和8年制定)」及び「コンクリートおよび鉄筋コンクリート標準仕様書(昭和10年制定)」がそれぞれ制定される以前に設計・施工された建物で、いかなる設計方針で設計されたかも明らかでない。
当時としてはモダンな洋風な建物であり、しゅうへんの木造建物とマッチし人々に親しまれ愛されてきた。
その名残として現在地に建物の位置をそのまま残しタイル貼りで示したもので、また入口のアーチについても旧浜脇温泉の入口をそのままの姿で復元したものである。

地図

地図

別府市浜脇1丁目 付近 [ストリートビュー]