鎮西学院 発祥の地
ちんぜいがくいんはっしょうのち
長崎電気軌道 市民病院前停留所の 南東250m。“大浦東山手居留地跡”からオランダ坂を上ると, 左に“活水女子大学”の正門があり, さらに上ると大学の2号館と3号館の間の道路脇に「鎮西学院発祥の地」のプレートが建っている。
鎮西学院は, 明治14年(1881) にプロテスタント・メソジスト派のミッションスクール 「
昭和20年(1945) 8月 長崎に原爆が投下され, 爆心地に近かった鎮西学院校舎はほとんど 破壊され, 職員・生徒にも多くの犠牲者を出した。校舎を失った後, 諫早市の 空き家になっていた海軍病院を借り受け, 昭和21年(1946) から ここに拠点を移した。
昭和22年(1947) 新制「鎮西学院中学・鎮西学院等校」と改称, 昭和41年(1966)「鎮西学院短期大学」を設立。 その後 短期大学は昭和55年(1980) に「長崎ウエスレヤン短期大学」, 平成14年(2002)「長崎ウエスレヤン大学」と改称している。
なお, 久留米市には「鎮西学園発祥之地」碑があるが, これは 鎮西学院とは関係がない。
写真
碑文
鎮西学院発祥の地
1881年(明治14年)10月23日 米国テネシー州アセンスから来日したカロル・フォング博士が この地に鎮西学院の前身であるミッションスクール加伯利英和学校を創立した この校名は 学院設立にあたって最初に寄金を提供された米国のCobleigh夫人の名に由来している 鎮西学院は その後1929年(昭和4年)竹ノ久保に移転し 1945年(昭和20年)原爆罹災後は更に諫早市に移って 長崎カエスレヤン短期大学及び鎮西学院高等学校となっている
この真下の急な坂道は 小説「蝶々夫人」(原作者――ジョン・ルーサー・ロング――鎮西学院第5代院長コレル氏夫人の弟)の中でも 蝶々夫人やピンカートン中尉が往来した坂として描かれ この碑のすぐ南側には 「蝶々夫人」の館の位置となった東山手六番館があった