法神流 発祥の地
ほうしんりゅうはっしょうのち
上越線 津久田駅から 東に約5km。県道157号 赤城山敷島停車場線を東に進み,深山交差点から更に東の深山バス停近くに曹洞宗 双永寺がある。寺の裏側の、沼尾川支流 前入沢を北に渡ったあたりに金山宮と八幡宮・八坂神社という小さな神社(渋川市赤城町深山甲537)がある。
八幡宮・八坂神社の 石段下 横手に「法神流伝来碑」と刻まれた 高さ2.5mの大きな石碑と, 「新法神流伝来碑」という 高さ90cmほどのやや小型の石碑が並んで建っている。
剣法“法神流“がこの地に伝来した由来は 碑文で明らかだ。江戸時代の末期,この地に
伝来碑は 明治時代中期にこの地に建立されたが,昭和22年(1947) に 大水害のため流失してしまった。 これを惜しんだ有志が,平成3年(1991) に 拓本から旧伝来碑を写して再建し,同時に理解を深めるために 新伝来碑を建立した。
その流失した物とは別と思われるが、欠けた古い石碑がすこし離れた所にあった。これもきっと水害に遭った物なのだろう。
金山宮は 目標物が少なく,非常にわかりにくい場所にある。本来は南側の川の対岸から車で入る道があるがそれがわからず,隣の双永寺で聞いて徒歩で入り,相当の時間を浪費する結果になった。
なお,西に1.2kmの金山宮入口となる 深山交差点には,「兵法 法神流剣術発祥之地 深山入口」と書かれた 石標が建っている。“平成3年12月 法神流伝来碑建立委員会”と刻まれており, “この先に伝来碑がある”という案内碑らしい。
令和元年(2019) に再訪してみると、「駐車場完備」として神社前まで自動車が入れるはずの橋が、台風19号 Hagibis による影響で、川幅が変わり橋は流失しており、徒歩で渡れる程度のものが仮架橋されていた。碑や八幡神社は直接的な被害を被らなかったようだ。
時が経っても分かりづらく(笑)、案内は出ているもののよくわからなかったので結局 近所のおじさんに尋ねて教えてもらった。仮橋はオートバイなら渡れるかなあ? と言っていたけれど、徒歩で渡った。
写真
碑文
法神流伝来碑
從一位勲二等公爵近衞篤麿篆額物之傳於後世也必待其人而傳焉於其藝於其術非得其人則不能傳難矣哉得其人也粤原法神流劍術之傳往古者音住者焉當値神仙而傳其術音住以是傳之右坂保重者保重傳於富樫政親改親傳於政持政持傳於政好政好傳於知菊知菊傳お政高政髙傳於白生翁翁諱政武氏富樫白生其通稱也其再爲鎮守府將軍藤原利仁之後胤子孫仕鎌倉氏數世之後仕加賀候世食録千石至政武政武年甫十五歷游天下叩諸名家之門試其術無者敵者其餘通諸技是以名聲普聞常懐慷慨之志歎有王室武微更稱藤井右門専交英傑之士將以有爲事未成而就縛雎然其擧以出於至誠天憐之得逃即匿跡奥羽称梅本法神遂來是地養老傍好醫有乞治者則奥薬無不奏功其所爲稱異常故以神仙見稱翁天保元年庚寅歿距其生寛文三年癸卯得年百六十有八大德必得其壽蓋亦翁之謂也乎明治二十四年十一月十七日贈正四位有須田房之助者姓源諱為信弱冠深志武術師事於翁窮其薀奥名聲籍其都鄙是於門者多嫉妬之輩陽諜將撃之力不敵終遭銃殺時天保二年辛卯季春享年四十有二無男勝江玄隆者爲信之庶弟也學醫於翁習劍於爲信以故恐其名朽後世與同門諸士相議戮力将勒石建于金山神祠側嗚呼其藝其術得其人而得傳焉後世又得其人而傳の庶幾其永不朽也銘曰
藝成切磋 術熟琢磨 武之爲道 自利利他 于治于乱
古往今來 與文併稱 其德偉哉 傳來後世 不得其人
其術亦廃 通鬼通神 有如翁者 芸術傳眞正二位勲一等伯爵東久世通禧 撰弁書
明治三十年代に建立された法神流伝来碑は昭和二十二年の大水害で惜しくも流失したので本碑は前橋市在住の生田うめ氏が所有する旧碑の拓本をもとに再現したものである
平成三年五月
法神流伝来碑建立委員会
物の後世に伝わるや必ず其の人を得て伝わる焉,其芸に於て其術に於て人を得るに非ずんば,即ち伝わること能はず。難い矣哉其人を得ることや。粤に原法神流剣術の伝わるや往昔音住なる者あり焉かつて神仙に値うて其術を伝う音住これを以て是を石坂保重なる者に伝う。保重富樫政親に伝う政親政持に伝う政持政好に伝う。政好知菊に伝う知菊政高に伝う政高白生翁に伝う 各諱は政武氏は富樫白生其の通称なり其先は鎮守府将軍藤原利仁後胤となす。子孫鎌倉氏に仕え数世の後加賀候に仕う世々禄千石を喰みて政武に至る政武年甫めて十五天下を歴遊し諸名家の門を叩いて其術を試みるに敵するものなし其余諸技に通ず。是を以て名声を普く聞こゆ常に慷慨の志を懐いて王室の式微を歎じ更に藤井右門と称し専ら英傑の士と交わり将に以て為すあらんとし事未だ成らずして縛に付く然りと雖も其挙たるや至誠より出たるを以て天之を憐れみ逃るる事を得たり即ち跡を奥羽に隠して楳本法神と称し遂に此地に来って老を養う。 傍ら医を好み治を乞う者あれば即ち薬を与うるに功を奏せざるなし。其の為す所稍常と異なれリ故に神仙を以て称せらる。癸天保元年庚寅に没す。其の生まれたる寛文三年葵卯を距る年を得る事百六十有八なり。大徳は必ず其の寿を得ると蓋し亦翁の謂なるか明治二十四年十二月十七日正四位を贈らる。須田房之助なる者あり姓は源諱は為信弱冠にして深く武芸に志し翁に師事して其の蘊奥を極む名声都鄙に籍甚たり門に入る者多し嫉妬の輩陽に謀って将に之を撃たんとす。力敵せず終に銃殺に遭う時に天保二年辛印季春なり享年四十有二男なし。勝江玄隆なる者為信の遮弟なり医を翁に学び剣を為信に習う故を以て其名の後世に朽ちんことを恐れ同門の諸氏と相議し力を合わせ正に石に勒して金山祠側に建てんとす。嗚呼其芸其術其の人を得て伝うることを得後世又其の人を得て之を伝えなば庶幾夫れ永く朽ちざるなり。銘に曰く
読み下し文は こちらによる。
新法神流伝来碑
剣聖上泉信綱戦国の末兵法新陰流を創始武名天下に香し高弟に 奥山休賀斎なる者あり 徳川家康の剣師となる 晩年三河明神に隠棲して神僧となり 音寿(住)斎と号す 高弟に右坂保重なる者あり その奥旨を得て諸国を歴遊す 行きゆきて加賀国に至る 名族富樫氏あり 当主政親頻りにその術を乞う 保重遂にその奥秘を政親に伝う 政親より五伝して白生政武に至る 政武天稟の資あり若年にしてその剣技父師を凌駕す 剣名四隣に高し 政武故あって姓名を楳本法神と変え諸国を遊歴する 術を試みるに敵する者なし 世人今牛若という長崎に至りて医術を学ぶ 翁寛政初年の頃赤城山麓にその英姿を現す 白髪痩躯その歩行さながら翔ぶが如し 入神の剣技と槍法 救世の医療 村人赤城の神仙として崇め敬慕す その門に学ぶ者千余 法神流と称す 翁文政十三年に没す 享年百六十八才と伝う 門人中傑出せるは須田房之助なり 諱 為信通称深山の房吉と称す 金山宮下に生る 躯幹長大にして剛力無双なり 天賦の 才あり刻苦遂に当流の蘊奥を極む 江戸に道場を開く その剣技江都に於て右に出ずる者なし 遺恨の輩あり 難を逃れて故山に帰る 奥利根追貝の星野家に入り道場を開く 剣名利根一円を圧す 隣村薗原に神道一心流の剣客某あり競合の上争点を生ず 某の剣技房之助に遠く及ばず即ち欺騙して銃殺す この時房之助四十二才天保二年三月の事なり 惜しいかな 房之助の義弟箱田の住人森田与吉郎その跡を継ぐ 剣弟に町田寿吉なる者あり 世人法神流の三吉と称せり 森田の高弟に根井行雄 須田平八あり森田門の竜虎となす 平八また書技に秀で至妙の筆跡今にあり 根井の高弟に持田善作なる者あり 次男持田盛二天稟の才にして幼童より法神流を学ぶ 後に剣道範士となり昭和四年昭和天皇御即位記念天覧試合に優勝す これより法神流の盛名天下に鳴る 門人に野間恒なる者あり 昭和九年天覧試合に優勝 また門人望月正房昭和十五年天覧試合に優勝せり 斯る事例は全国にその比を見る事なし その栄光万世に燦たり 嗚呼偉なるかな法神流の流れや 郷土の心の遺産これに優るものなし 然れども 流れうつり行く星霜の中に この偉大なる道業の忘失せん事を恐る ここに士人相寄り相集い相議し 浄財を募り吉日を卜として法神流発祥の地金山宮の神域に文を石に刻み碑となすは是後人奮起の資となさんが為なり
平成三年五月吉日
前橋市表町 戸山流居合道範士 諸田政治 撰文
都丸芳雄 書