全日本 ろうあ 連盟 結成の地
ぜんにっぽんろうあれんめいけっせいのち
伊香保温泉を東西に貫く県道33号 渋川松井田線 一文字通りを、伊香保支所前交差点から南側へ急坂をのぼると、すぐ左手の市有地に凝った造形の石碑と案内板が建つ。
戦前から組織はなかったわけではないが、戦争が優先され団体活動が停止となった。戦後、再結成しようと、まだ混乱が続く昭和22年(1947)に ホテル木暮(渋川市伊香保町伊香保135)において全国聾唖団体代表協議会が開かれ、激論の末、全日本聾唖連盟が結成された。
なお、ホテル木暮 南東側にある第一駐車場を入ってすぐのところには、結成大会記念碑が置かれている。
説明板には「デザインは学生3名」としか表示されないが、筑波技術大学 総合デザイン学科 の聴覚障害がある大学生の町田
写真
碑文
全日本ろうあ連盟
結成の地
聾唖の世界を一つに
戦後の混乱冷めやらぬ1947(昭和22)年5月25日、全国から「われらの組織」をという思いを胸にたぎらせた約200名のろうあ者たちがこの地に集結した。
そして、昼夜にわたる議論の末、ろうあ者の生活や権利の擁護を目的に、「ろうあ者による、ろうあ者のための、ろうあ者の組織」の立ち上げを決議した。
かくして、全てのろうあ者が待ち望んでいた全日本ろうあ連盟は、ここ群馬県伊香保温泉の地で創立された。2015(平成27)年6月11日 建立
一般財団法人 全日本ろうあ連盟
全日本ろうあ連盟結成の地 伊香保温泉
敗戦の余波冷めやらぬ中、ここ群馬県伊香保温泉に、「
聾唖 の世界を一つに」という思いを抱いて、約二百名のろうあ者が全国から集まり、全日本ろうあ連盟は結成されました。
昔、ろうあ者は「オシ」「ツンボ」と蔑まれ、不具廃疾者の扱いを受け、差別されてきました。明治の初めに京都や東京で聾学校が開校され、大正にはいってからようやく全国各地でも開校されていき、これらの聾学校を卒業したろうあ者が集まって作った同窓会が、ろうあ者の組織の始まりと言われています。
このようにして作られた各地の同窓会が中心となり、大正四年に日本聾唖教会を発足させましたが、第二次世界大戦が激化するにつれ、戦時統制の名目のもとに団体活動を停止させられました。
戦後の荒廃の中、ろうあ者の組織の再建に向けて、後に全日本聾唖連盟(当時の名称)初代連盟長となる藤本敏文を中心に「ろうあ者の世界を一つに」と全国に散り散りとなっていたろうあ者に呼びかけ、木暮旅館(現ホテル木暮)に約二百名が馳せ参じ、全日本聾唖連盟の結成に向けて「全国聾唖団体代表協議会」が開かれました。
戦後の間もない時であり、食糧難が続き、交通機関も混乱状態でしたが、各々が米を持ち寄り、徹夜で並び汽車の切符を購入し、汽車も芋の子を洗うような混雑ぶりの中、長時間揺られ、やっとの思いで渋川駅に辿り着くという時代に、全国から馳せ参じたろうあ者の苦労は如何ばかりであったかとその苦労が偲ばれます。しかし、各々の胸中に組織結成への熱い思いがたぎっていたに違いありません。
全国聾唖団体代表協議会の討議は沸騰し、深夜まで十二時間に渡る激論だったと伝えられます。激論の末、各団体の自治活動を主体とし、ろうあ者の福祉、文化の向上を目指し活動するという方向が定められ、役員を選挙で選出し、役職のすべてをろうあ者が担うという、「ろうあ者による、ろうあ者のための、ろうあ者の組織」として、全日本聾唖連盟が結成されることになりました。
かくして、ここ群馬県伊香保温泉の地にて、「すべてのろうあ者が待ち望んでいた『われらの組織』は、昭和二十二年、ついによみがえった」(全日本ろうあ者連盟第二代連盟長大家善一朗著『回想』より)のです。時に昭和二十二年五月二十五日のことでした。
そして、先人たちの思いは今も引き継がれ、ろうあ者の人権を尊重し文化水準の向上を図り、その福祉を増進するために、全日本ろうあ連盟は邁進しています。製作 一般財団法人 全日本ろうあ連盟
記念碑は、ここ群馬県伊香保温泉が全日本ろうあ連盟の結成の地であることを記念し、2015(平成27)年6月11日に群馬県にて第63回全国ろうあ者大会が開催されたのを機にこの地に建立したものです。
記念碑は、「歴史」「現在」「未来」を三つの形で表現しています。
「歴史」は先人達の積み重ねられたものが私たちの今と未来を支え、「現在」は、眼と耳を意味する球体と空間で、ろう者が情報をつかみ、発信し、聴覚障害や手話に対する理解を広げ、社会の障壁をなくし、「未来」は上へ向かい成長してゆく力強さにより、明るい将来を開いていきます。
「歴史」「未来」を「聾」という手話に見立て、ろう者のアイデンティティを表現し、ろう者が未来へと希望を持って進んでいく姿を表現しています。デザイン:国立大学法人筑波技術大学学生3名