感恩講 発祥之地

かんおんこうはっしょうのち

奥羽本線 秋田駅から南西に1.5km。旭川に架かる下新橋の西側に新政酒造がある。 酒造所の北側に隣接する児童公園 感恩講街区公園(秋田市大町6丁目2-55)の西隅に,2枚の石板と石柱を組みあわせた発祥碑が建っている。公園とはフェンスで区切られている。

「感恩講」とは,一部の地域を除けば あまり知られていないが, 文政12年(1829) に創られた,日本初の民営による窮民・孤児救済機関。 現代風に言えばNPO(民間非営利組織)のような組織である。

東北地方はたび重なる凶作と飢餓により生活に困窮する町民が増加していた。 那波なば祐生すけなりは 藩の絹方の支配人に登用され,貧民救済のための運用資金調達方法を検討するように 藩から依頼を受けた。那波の立てた計画は,献金を募ってその金で農地を買い入れ,そこから上がる収入で半分は平年の貧民救済に使って残りの半分は貯蓄する。凶作の年には飢餓に苦しむ人たちを助ける,というものだった。この方法によって出資者の経済力に影響されることなく,恒久的に安定した活動を維持することができる。

那波はまず自ら400両の献金を行い,有力町人に働きかけて同志の賛同を得,さらに一般町民からも加入者が増え,構成員191名・献金は金2000両となった。その金でようやく財政基盤が出来上がった。

文政12年(1829)、藩ではこの事業団体に「感恩講」という名称を与え,民間主導の画期的な救済事業が誕生。 この地 本町6丁目に備蓄米を保存する蔵を建設。 他にも町民の献金や木材・石材などの寄付や労力奉仕があり,藩からの援助も得られた。

天保4年(1833) に東北地方はかつてない大飢餓に見舞われ,餓死や疫病死があいついだ。 発足間もない感恩講では資金がまだ不十分ではあったが,那波が私財を投じ,また藩からの支援も受けて, 救助を求めた家は1000戸,父母を亡くした孤児の数は120人以上に達した。これらの人々に米を支給し 病人への薬代や医療費などを与え,孤児たちには保育の世話をした。 感恩講では天保4~5年(1833 - 1834)に 延べ413万人に対して施米をしている。

天保元年(1830) には土崎感恩講が発足。明治期までに秋田県内の感恩講の数は秋田感恩講とは別に18箇所。那波が創設した秋田感恩講が救済した人員は,明治42年(1909) の時点で 延べ403万余に及ぶ。

那波の精神は、藩政期を経て 明治・大正・昭和・平成と 脈々と受けつがれ、 現在 秋田市内に感恩講児童保育院として残り,代々那波家が理事長を務めている。

[那波祐生と感恩講 より抜粋]

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碑文

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秋田市大町6丁目 付近 [ストリートビュー]