神田青果市場 発祥之地
かんだせいかしじょうはっしょうのち
靖国通りの 裏通りの“老川ビル”の前から、靖国通りから
この神田須田町付近には 江戸時代の初めごろから 青物商が集まっていたが,その後 徳川幕府は各所に散在していた青物商を この地域に呼び集め,御用市場として育成した結果, 駒込・千住と並び「江戸三大市場」として栄えた。
明治となってからも政府公認の市場として引き継がれたが,関東大震災で全滅し 外神田(秋葉原駅北側)に移転。東京市中央卸売市場神田分場として 東京の台所をあずかる重要な市場となった。戦後の東京の膨張にともない 秋葉原のこの場所も手狭となり,1989年(平成元年)には 太田区(太田市場) 大田区の大田市場に移転した。
写真
碑文
神田青果市場発祥之地
旧 神田青果市場の由来
この市場は慶長年間に今の須田町附近、当時は八辻ヶ原と称していたこの地一帯において発祥したものである。年を追って益々盛大となり徳川幕府の御用市場として駒込、千住と並び江戸三代市場の随一であった。ためにこの市場には他市場で見られない優秀なものが豊富に入荷した。そして上総房州方面の荷は舟で龍閑町河岸へ、葛西、砂村方面のものは今の柳原稲荷河岸から水揚げされた。当時の記録によるとこの市場の若い衆達が白装束に身を固めてかけ声も勇ましく御用の制札を上に青物満載の大八車を引いて徳川幕府賄所青物御所を指してかけて行く姿は実に「いなせ」なものがあったと云う。巷間江戸の華といわれた、いわゆる神田っ子なる勇肌と有名な神田祭はこの神田市場にそのことばの源を発しているものといわれた。こうして繁栄をきわめたこの市場は江戸時代から明治、大正、昭和へと漸次その地域を拡大してこの地を中心に多町二丁目、通り新石町、連雀町、佐柄木町、雉子町、須田町にわたる一帯のものとなりその坪数は数千坪に及んだ。この間大正12年9月関東大震災にあって市場は全滅したが直ちに復興し東洋一の大市場とうたわれた。惜しい哉この由緒ある大市場も時代の変遷と共にこの地に止まるととができず、昭和3年12月1日を期して現市場である神田山元町東京都中央卸売市場神田分場へと移転した。当時数百軒に及んだ問屋組合頭取は西村吉兵衛氏であった。風雪幾百年永い発展への歴史を秘めて江戸以来の名物旧神田青果市場は地上から永遠にその姿を消した。父祖の代からこの愛する市場で生きて来たわれわれは神田市場がいつまでもなつかしい。あたかも生れ故郷のように、尽きない名残りをこの記念碑に打ち込んで旧市場の跡を偲ぶものとしたい。
記念碑建立者
- 東京都青果物商業協同組合 理事長
- (元買出人)大澤常太郎
- 東京青果仲買組合連合会 会長
- (元万浦)江澤仁三郎
- 東京丸一青果株式会社 社長
- (元万弥)石塚富三
- 東中東京青果株式会社 社長
- (元三浜)深見浜助
- 淀橋青果株式会社 専務
- (元丸文)老川為次郎
- 撰文
- (元買出人)平野仁二良
- 書
- (元買出人)中里晴市郎
昭和三十二年十一月