川島小学校 発祥之地

かわしましょうがっこうはっしょうのち

相鉄 上星川駅から北西に約1Km。帷子かたびら川西側の山裾に曹洞宗 随流院がある。寺の境内に新しく立派な石碑と説明板が建っている。

川島小学校は、明治6年(1873) にここ随流院に「川島学舎」として発足。2年後に川島学校が創設され、ここから400mほど北西の現・川島町公園のある場所に校舎を建設した。その後都筑郡西谷村立尋常小学校、村立川島尋常小学校、横浜市立尋常高等川島小学校、横浜市立川島国民学校と名称を変え、戦後昭和22年(1947) 横浜市立川島小学校となった。

【リンク】横浜市立川島小学校

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碑文

川島小学校発祥之地(川嶋学舎)之跡

明治六年七月 随流院

川島小学校
創立百三十周年を祝う地元有志一同

平成十七年十一月吉日

河嶋小学校発祥の地(川嶋学舎)之跡碑

日本の近代的な教育制度は、明治5年8月3日に公布された「学制」から始まりました。「学制」とは、学区(大・中・小)のこと、学校のこと、教員のこと、生徒および授業のこと、海外留学のこと、学費のことが決められていました。
当時の川島地域での教育は、川島村随流院と笠地区の禅導庵(随流院の分院)において寺子屋教育が行われていました。随流院に於いては、時の23代目住職平野泰淳氏が川島村・上星川村の少年、子女に対し「読」「書」「算」の三科を、禅導庵に於いては、山下某氏が「読」「書」のニ科を、川島原、笠、中田、逆田方面の子弟に教えていました。
明治6年、保土ヶ谷区域に設立をみた学校(学舎)は程谷学舎(現在の保土ヶ谷小学校)、帷子学舎(後に程谷学舎と統合)、星川学舎(現在の星川小学校)と川島村・上星川村を学区とした『川嶋学舎』(現在の川島小学校)の4校でした。
川嶋学舎の教員には、随流院の住職平野泰淳氏が教師に公認され任に当っていたことが、明治6年7月の学舎教育「御請書」に記されています。 尚、川嶋学舎に学んでいた児童数は明治7年の記録に46名とあります。
その後、明治8年4月15日「学制」に従い、第七大区一小区内の川島村・上星川村を学区として「川島学校」が現在の川島町公園の地に開校されました。校舎は木造二階建、建坪65坪、教室数3、教員は2人、児童数は30~40人でした。
このように『川嶋学舎』は、江戸時代後期より明治6年まで続いた寺子屋教育から明治8年の「川島学校」開校まで3年間の短い期間ではありましたが、この地域における近代教育発展に果たした役割は大変大きなものであり、現在の川島小学校の『礎』になっています。
平成17年、ここに創立130周年を迎えるにあたり『川島小学校発祥の地(川嶋学舎)之跡碑』を建立し、地元の教育活動発展の歴史を刻んだ『史跡』として永くこの地に残したいと願うものです。

平成17年11月吉日

川嶋小学校創立130周年を祝う地元有志一同

地図

地図

保土ヶ谷区川島町 付近