県歌「信濃の国」誕生の地
けんかしなののくにたんじょうのち
長野県妻科庁舎3号棟(長野市大字南長野妻科)という、板張りのなにやら凄い建物から路地に入った北側すぐの私有地に、杭状の碑がある。
明治32年(1899)に唱歌として、長野県師範学校教諭の浅井
同じ杭に旧居跡と記してあるが、同居していたわけでもなさそうで、この場所にこの杭が設置された理由などはよくわからない。
作詞の浅井洌は、嘉永2年(1849)松本藩士の子として生まれる。その後明治維新、廃藩置県と歴史は動き、明治4年(1871)筑摩県の一部となった。明治9年(1876)に筑摩県庁が焼失、翌々月には信濃国部分は長野県に(飛騨国部分は岐阜県に)併合された。このことから、長野県の旧筑摩県勢はことあるごとに分県を提案。折しも自由民権運動が盛んな頃、浅井洌も分県活動に参加していた。
そんな折り、浅井は明治19年(1886)に、松本中学校から長野師範学校へ転勤。齢38にして、今まで敵対視してきた北信の住人であり教師となってしまうのだった。それから、政治活動を封印したという。南信と北信の両方の生活から、分裂は避けるべしとの思いを固めたのか、依頼を受けて作詞した「信濃の国」は南信・北信のバランスよく歌われ、歌い終わると信州を一回りした気分にさせるのだという。そして、長野県庁(長野市)敷地の他、信州スカイパーク(松本市)にも「信濃の国」歌碑が設置されるなど、信濃はひとつであるとしたい思惑が見え隠れする。
そして歌詞に「長野」の字句が出てこないのは、南信の活動家だった意識がそうさせたのか。
曲については、当初は長野師範の音楽教諭 依田弁之助が作曲した。歌詞がとてつもなく長いので作曲も難しかろうと思うのだが、依田版は邦楽調で、よく言えば穏やか、悪く言えば単調。このノリの悪さのせいか、やがて歌われなくなってしまった。後任の北村季晴が再作曲。歌劇創作に意欲を見せていた北村は、勢いのある行進曲風、途中4番のみ優雅な曲調とする緩急つけたことで、飽きなく6番まで歌われた。
このような経緯により、作詞と作曲が1年ずれているようである。
旧居跡であることは記録があるのだろうが、それを誕生の地と呼ぶにふさわしい根拠が示されていないので、なんとなくもやもやする。
写真
碑文
県歌「信濃の国」誕生の地
作詞者 浅井洌 旧居跡
作曲者 北村季晴 旧居跡