近代 紡績 工業 発祥の地
きんだいぼうせきこうぎょうはっしょうのち
大阪環状線 大正駅の南500m。三軒家公園(大正区三軒家東2丁目12)の西隅に柱状の発祥碑と副碑が建っている。
明治初期まで糸を紡ぐ紡績は農家の副業による家内工業で行われていた。そのため綿糸の輸入は 総輸入額の40%近くを占めていた。渋沢栄一らは 明治15年(1882) 大阪紡績会社(現 東洋紡)を設立し三軒家工場を建設した。
紡績機械はイギリスから輸入し, レンガ造りの近代的な工場として創業を開始。これを契機に当地を中心に数多くの紡績・繊維会社ができ, 日清・日露戦争を経て繊維関係の企業を集め 大きな発展をとげた。太平洋戦争末期の昭和20年(1945), 空襲により工場は焼失した。
写真
碑文
近代紡績工業発祥の地
大阪紡績會社(俗称三軒家紡績)は明治十六年から操業を開始したわが国最初の工場で近代紡績工業の先駆となった
市制施行七十周年記念
昭和三十六年三月 大阪市建立
近代紡績工業 発祥 の地 (大阪紡績 )明治16年7月に, 東京-大阪の実業財界人
渋沢栄一 や藤田伝三郎 らが出資した大阪紡績会社(通称 三軒家紡績)が, 当地「三軒家 村」で操業を始めました。この大阪紡績会社は大正区の近代工業を飛躍的に発展させ, 大阪の紡績業を日本一に押し上げる原動力となりました。
三軒家村は古くから船着場としてにぎわい, 石炭や原料の綿花の搬入や製品の運搬に便利なため選ばれたといわれています。
操業間もなく夜業を始めましたが, 明治19年に発電機を購入し, 初めてあかあかと電灯がともり工場全体が不夜城のように浮かびあがり, 各地から電灯の見学者が殺到しました。工場はまたたく間に拡大発展し, 業界に傑出した地歩を確立しました。
明治20年代には, 当地を中心に数多くの紡績, 繊維会社ができ, 日清戦争から日露戦争時代にかけて大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるにふさわしい発展をとげました。
その後, 大正3年, 昭和6年に他社と合併して世界最大の紡績会社に発展しましたが,戦争激化とともに軍需工場に転換させられ, 昭和20年3月の大空襲で焼失しました。大阪市