空挺 落下傘部隊 発祥之地
くうていらっかさんぶたいはっしょうのち
日豊本線
第二次世界大戦の初期にドイツ軍の空挺部隊が活躍したことに注目した日本陸軍は,空挺部隊の創設を決め,昭和15年(1940) に浜松陸軍飛行学校に“挺進練習部”を設置し,翌年初の有人降下に成功。その後機密保持のため満州(白城子陸軍飛行学校)に拠点を移したが,冬季の訓練が困難であったため本土に帰還して,宮崎県新田原において“陸軍挺進練習部”として独立。昭和18年(1943) に近隣の川南村にあった軍馬補充部の牧場をパラシュート降下場へ転換し,唐瀬原飛行場を中心とする空挺施設を新設して 本格的な訓練拠点とした。それまで軍馬の牧場しかなかった川南村は,一転して巨大な空挺基地となった。
太平洋戦争開戦後,陸軍最初の空挺作戦(スマトラ島パレンバン)が行われ,川南における陸軍空挺部隊は4個連隊に規模を拡大し,レイテ島の降下作戦から沖縄への特攻作戦まで,各地の戦場へ投入されていった。
写真
碑文
空挺落下傘部隊発祥之地
- 建設者
- 空挺戦友会
- 空挺同志会
- 遺族一同
昭和三十八年五月建立
施工者 宮崎市 島津石材店
川南護国神社に空挺部隊
一万有余の英霊合祀の由来
昭和十六年 川南村にあった広大な軍馬補充部の牧場が落下傘部隊の降下場に転用され 同年九月から使用を始めた 翌十七年には兵営が建設され 数千の落下傘兵がこの地で練武に励んだ 天下る落下傘兵は 天孫降臨になぞらえて空の神兵と称され 村人の庇護後援のもと精鋭誇る空挺部隊が練成され 次々と南の決戦場に出て征き活躍した
しかし 我々の悲願も空しく戦敗れ多くの戦友が戦野に屍を晒し そのみ霊だけが当時豊原にあった陸軍挺進練習部構内の挺進神社に神鎮り給うたのである ところが 二十一年初夏の頃 宮崎市に進駐していた米軍は 理不儘にも挺進神社を焼払ってしまった 拠り所を失った英霊は 当時旧兵舎を校舎としていた宮崎師範学校の寄宿舎周辺を 毎夜白い体操衣袴姿で走り廻るという噂が立った
そのようなことがあって 一時唐瀬の石川冨士之助翁の仏壇にお祭りし 更に昭和二十四年この護国神社が再建されるに及び こゝに合祀し今日に及んでいる
護国神社の祭祀は 川南護国神社奉賛会によって永久に行はれることに感謝し 後世のためこゝに由来を刻しておく次第である平成二年十一月二十三日
陸軍空挺部隊戦友一同