西方小学校 発祥之地

にしかたしょうがっこうはっしょうのち

栃木市と鹿沼市の真ん中あたり、東武日光線 東武金崎駅から西へ約2.5km、浄土宗 福正寺(栃木市西方町元1584)の境内に、記念碑が建立され、令和5年(2023) 6月に除幕された。

江戸時代からすでに寺子屋教育に携わっており、明治の学制発布翌年の明治6年(1873) に、西方小学校の前身となる「日新学舎にっしんがくしゃ」が当地に開校した。

栃木市西方町は、平成23年(2011) の合併までは独立した自治体 上都賀郡西方町だった。

写真

  • 西方小学校発祥之地
  • 西方小学校発祥之地 背面
  • 西方小学校発祥之地 説明
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碑文

西方小学校
発祥之地

第六十世 舜譽淳一

令和五年六月吉日 建立

西方小学校創立と福正寺寺子屋教育
「西方小学校発祥の地」碑建立にそえて

福正寺は法然上人の法曾孫にあたる一向上人が弘安元年(一二七八)にこの地に念仏道場を開いたことから始まる 踊り念仏を教化の手段としたため 時宗十二派のひとつ一向派として組み込まれたが 教義的には浄土宗と変りないものであった 創建以来念仏場として隆盛を誇り 派内にあっては僧侶養成や僧録所として北関東の中心的役割を果たしていた
寺子屋の開塾は不明であるが 天保十三年には住職を含め十三人の僧が在籍しており その中でも天保年間に住職を務めていた弁誉朝阿上人は 関流和算の最高免許「允可(いんか)」を授けられ 仏道精神の傍ら寺子屋教育も熱心に取組み 大勢の筆子が学んだと伝え聞く
しかし 幕末 一向派の衰退が激しく 在籍僧も離散が相次ぎ 数える僧で明治を迎えた
田谷(本郷)和賀井家隠居宅で中澤儀一郎氏を塾頭に開塾していた中澤塾が手狭になり 中澤塾を福正寺に移転した 元 本城 田谷 皆川 富張 金井 金崎方面より 百人を超す筆子が学んでいたという
明治五年(一八七二)八月学制が発布され 福正寺寺子屋を基礎に元 本城 田谷地区が連合して 明治六年八月一日 西方小学校の前身である『日新学舎』が福正寺で開校する 同年十二月現在地に移転 明治二十四年西方尋常高等小学校と改称することになる 一方 福正寺の中澤塾は明治八~九年まで継続した 福正寺は江戸時代より西方地域の庶民教育の礎を担っていたことがわかる
令和五年(二〇二三) 西方小学校創立一五〇周年を迎えるにあたり当時の建学の精神と先人達の遺徳を茲に末永く伝えるものである

令和五年六月仏讃日

福正寺 第六十世 舜譽向阿淳一

地図

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