栃木県 県名 発祥の地

とちぎけんけんめいはっしょうのち

両毛線・東武日光線 栃木駅から北東に1km。栃木市の中心部,宇都宮地方裁判所の北に 第二公園と並んで神明宮(栃木市旭町26)がある。西の県道11号からの参道を入ると,正面の拝殿の手前左手に「歴史にのこる文化財」と書かれた説明板があり, ここに『「栃木県」県名発祥の地』と書かれている。

明治4年(1871) の廃藩置県によって,旧制度の“藩”はすべて廃止され,代わって“県”が誕生した。 現在の栃木県エリアは,宇都宮県・大田原県・黒羽県・烏山県・茂木県・壬生県・吹上県・佐野県・足利県・日光県 と, 旧藩名をほとんどそのまま県名にしただけの名称となったが, 半年後には “栃木県”と“宇都宮県”の2県に統合された。更に明治6年(1873) になって 両県は統合されて 現在の“栃木県”となり,県庁は栃木町(現栃木市)に置かれた。 県庁が宇都宮に置かれるようになったのは 1884(明治17)年になってからであった。

「栃木」という県名は 当時県庁が置かれた「栃木町」によるものだが, 「栃木」という地名の由来は諸説あって定かではない。

栃木県のホームページには4つの説が書かれている。

十千木(とおちぎ)説
栃木町内の神明宮社殿の屋根にある2組の千木ちぎと8本の鰹木かつおぎが, 遠くから見ると10本に見えたことから,神社の辺りを「十千木」と呼ぶようになった。
トチノキ説
トチノキがたくさん生えており、それが転訛して「トチギ」なった。
地形説
栃木町内を流れる巴波川は,かつてたびたび氾濫を起こしたことから, 千切れた地形(浸食された地形)の動詞「チギる」に接頭語の「ト」が付いた。
遠津木(とおつき)説
「古事記」に登場する豊城入彦命が,木(毛)の国(現在の栃木県)と木(紀)の国(現在の和歌山県)を区別するため, 遠くはなれた木の国という意味で「遠津木(とおつき)」と命名したものが「トチギ」に転訛した

かつては“トチノキ説”が広く伝えられていたようだが,最近は“十千木説”の方が有力になってきているらしい。 それは 別に“十千木説”に新しい歴史的発見があったというわけではなく, 「トチノキがたくさんあったから」というより“十千木説”の方にロマンを感じるからか。図は現在の栃木市の市章で,千木と鰹木を組みあわせたものとなっている。 “十千木説”の先端を走っている。

栃木市市章(-2010)

“千木”“鰹木”というのは,神社の屋根に設けられた部材をいう。千木は屋根の両端で交叉させた木であり、鰹木は屋根の上に棟に直角に(水平に)なるように 何本かを平行して並べた木である。 どちらも元々は上流階級の邸宅にも用いられていたが、今日では神社にのみ用いられ、神社建築の象徴のようになっている。

追記 2017.07

平成22年(2010) に栃木市の市章が新たに制定されていた。

栃木市市章(2010-)

十千木派の力が弱まったのか。

写真

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碑文

歴史にのこる文化財

愛国の人道を教化するのを目的として,
明治五年に大教院を東京に設け 明治六年には中教院,小教院を各都道府県に置くことになり, 栃木県には 大田原 鹿沼 宇都宮 足利に 小教院を設け,栃木に中教院を置きました。
しかし明治八年に神仏共同布教が廃止となり, 神道の統一を図るために, 事務局を各地方に設けました。
その名残の建物を拝殿として現在の場所に 移築したものです。
全国的に存在しているのは珍しい建物です。
また,当神社は,「栃木県」県名発祥の地として 市民に親しまれています。

地図

地図

栃木市旭町 付近