関目 発祥之地

せきめはっしょうのち

大阪地下鉄 谷町線 関目高殿(せきめたかどの)駅の南東 150m。都島通りに面した関目神社(大阪市城東区成育5丁目15-20)の正面入口近くに茶色の大きな石碑と, すぐ横に副碑が建っている。詳しくは碑文に書かれているが, この辺り一帯は 昭和51年(1976) に新しい住居表示が適用されるまで 「関目」という地名だった。

この地は、平安時代に近衛家(=公卿。五摂家の一つ) の荘園“榎並荘”であり, 「関目」の地名も歴史に残っている。また大坂城が築城された際に, 豊臣秀吉が城の防備のためにこの付近の道路をくねくねと曲がった道にして, 押し寄せる敵の様子が大坂城から見られるようにしたと言われ, “七曲がり”と呼ばれている。この曲がった道路は, 後に「京街道」の一部となり, 現在もその一部が 関目神社の北東50m (都島通りを挟んだ向い側)に残されていることが地図を見るとわかる。

写真

  • 関目神社
  • 関目発祥之地
  • 関目発祥の由来
  • 関目発祥之地
  • 関目の沿革
  • 関目発祥之地 由緒

碑文

関目発祥之地

城東区長 辻本博書

由緒

昭和五十一年十一月一日から実施の住居表示により 関目発祥のこの地が生育ならびに中央という 町名にかわったのでこの由緒を永く残すため この碑を建てる

昭和五十三年十二月吉日

生育連合旧関目町会
関目連合会町会

関目発祥の由来

この地はもと関目といい, 古くは榎並荘の時代から あったもので, 関目というのは, この地に見張所 (目で見る関所)があったことから起ったと言われる。 また, 関目の七曲りとして大坂城の防備に役立っ たという重要な地であった
なおまた明治天皇御駐輦の地として親しまれてきた

昭和五十三年十二月吉日

関目の沿革
久二年(一一一四)
榎並荘近衛家所領
正八年(一五八〇)
関目神社. 善福寺創建. 関目の七曲り
治元年(一八六八)
大阪府発足. 東成郡に所属. 明治天皇ご駐輦
治十八年(一八八五)
淀川堤防決潰関目村全没
明治四十三年(一九一〇)
京阪電車開通
正十四年(一九二五)
大阪市に編入東成区に所属
和六年(一九三一)
京阪電車高架化関目駅できる
和七年(一九三二)
十五区制により旭区に所属
和十五年(一九四〇)
城北運河完成
和十八年(一九四三)
二十二区制により城東区に所属
昭和四十九年(一九七四)
城東区分区鶴見区できる
昭和五十一年(一九七六)
住居表示実施. 生育ならびに中央と町名変更
昭和五十二年(一九七七)
地下鉄開通、関目駅できる

地図

地図

城東区成育5丁目 付近 [ストリートビュー]