尾張磁器 発祥之地
おわりじきはっしょうのち
地下鉄 名港線 港区役所駅の北東、港北公園(名古屋市港区港明1丁目)北側の一角に複数の石碑が囲まれている。
磁器を「瀬戸物」と一般名詞のように使うほどまでに普及させた功績は大きい。やきものの歴史は鎌倉時代頃からあった。江戸時代には、ろくろは一戸にひとつと規制があり戸主以外はやきものを続けられず、また、白くて薄い有田焼に押されて廃業し農業を始めたり人足になったりと苦しい状況だった。
名古屋の新田開発の時、新田開発の指導者だった津金文左衛門胤臣が鍬のうまく使えない一団に尋ねると、陶工のだったと言い、有田焼の本場 佐賀藩から逃亡してきた者と共に白磁の生産研究をさせた。その研究の成果を喜び、瀬戸で窯をおこすつもりだったが瀬戸の陶工の反対に遭い、反対されつつも始めたもののうまくいかなかった。
技術を習得するために、有田へ加藤民吉を潜行させることとなった。3年後 文化4年(1807) に民吉は技術を持ち帰り、1900年代には瀬戸の隆盛をみるのであるが、民吉は文化7年(1810) に53歳で没する。
瀬戸目線で語れば民吉は英雄的存在である一方、有田では他国民を匿ったり技術を漏洩させたりで、さらし首になったり追放されたりした者もいる。
石碑は、辰巳町稲荷社に建立されたようだが、辰巳社が道路拡張で移動したりしたので、当地に移されたものと推察する。
写真
碑文
尾張磁器発祥之地
享知元年熱田奉行津金胤臣藩令ニヨリ熱田前新田開墾ノ際瀬戸窯職人加藤宇治吉父子百姓トナレルニ救ヒ磁器南京焼の製法ヲ教ヘ前新田古堤上ニ築窯シテ製セシメタリ
胤臣ノ子胤貞更ニ民吉ヲ九州有田ニ派シ精技ヲ究メシメ廣ク瀬戸ニ製磁ノ業ヲ興シ今日ノ斯業隆昌ノ基ヲ成シ後世陶磁器ヲ瀬戸物ト称ス昭和十三年津金父子頌徳碑ヲ瀬戸ニ建ツルニ際シ尾張磁器發祥ノ此処ニ建碑シテ後世二傳フ昭和十三年八月建之
名古屋陶磁器輸出組合
名古屋陶磁器貿易商工同業組合
名古屋陶磁器工業組合
津金文左衛門胤臣頌徳碑
尾張磁器発祥之地碑
津金文左衛門胤臣 は、幼少から鋭敏をもって聞こえた。寛政三年(一七九一)熱田奉行兼船奉行となり、熱田前新田約三百五十万平方米 を約半年で干拓した。享年七十五歳、中区犬光院に葬られた。こうした功績をたたえ、昭和二十七年頌徳碑 を建立した。尾張磁器発祥之地碑 は、津金文左衛門立て臣の援助により、新しい製磁法(南京焼)を確立した、加藤吉左衛門父子の功績を賞し、昭和十三年辰巳町稲荷神社に建立された。