濟生學舎 発祥の地

さいせいがくしゃはっしょうのち

お茶の水駅と水道橋駅の間、順天堂大学の隣の高層ビル センチュリータワーと, その北側の給水場公苑に挟まれる道路にステンレスの案内看板が建っている。

明治初期に医者(西洋医)になるには, 大学の医学部を卒業する他に“医術開業試験”を 直接受験するという方法があった。済生学舎はその試験を受験するための、いわば予備校的な医学校だった。

済生学舎は 明治9年に長谷川泰により設立され, その後30年間でおよそ1万人の医師を送り出したと言われ, 一説によるとこの時代の医師の半数を 養成したとされる。済生学舎に学んだ人には、野口英世・吉岡弥生・荻野吟子などの名が見られる。

明治36年に 済生会は大学に昇格するべく申請したが果たさず閉鎖された。現在の日本医科大学・日本女子医科大学・東京医科大学などは, 済生学舎の流れをくむ。


この看板は昭和63年(1988)に建てられたものだが、平成23年(2011年)に南側 外堀通り沿いに石碑が追加設置された

写真

  • 濟生學舎発祥の地
  • 濟生學舎発祥の地
  • 濟生學舎発祥の地 碑文(2019)
  • 濟生學舎発祥の地 (2019)
  • 濟生學舎発祥の地 (2019)

碑文

濟生學舎さいせいがくしゃ

発祥の地

(本郷2-7-8)

 明治9年(1876)4月9日、この地に、医学者・長谷川たい(1842~1912)によって、「濟生學舎」が開校した。濟生=“広く民衆の病苦をすくう” この願いを込めて、医術開業試験(当時)の予備教育を目ざして創立された学舎に、西洋医学を志す優れた学徒が多数集った。明治12年冬、火災により校舎を失い、学舎長の自宅 (現本郷2-7-8)とその隣地に移転、明治15年、現在の湯島2丁目(ガーデンパレスの地) に、本格的校舎を建設し、附属蘇門そもん病院及び薬学部を付設して、「東京医学専門学校濟生學舎」と称した。
かくして、学舎は隆盛の一途をたどったが、事情あって、明治36年(1903)8月31日、創設者・長谷川泰みずから廃校を布告して、28年間の歴史を閉じた。その間、2万1千余の男女学生が学び、9千6百余の医師を輩出し、わが国黎明期の医学振興、地域医療に果たした役割は極めて大きい。
「濟生學舎」の廃校直後から、これを惜しむ教師・学生達によって、いくつかの医学講習会が設けられたが、その一つを母体にして明治37年4月、「私立日本医学校」が設立され、現在の「日本医科大学」(千駄木1丁目)へと発展し、濟生學舎教育の精神は受け継がれていった。また、学舎ゆかりの「東京女子医科大学」、「東京医科大 学」も、それぞれの道を歩み発展していった。

郷土愛をはぐくむ 文化財
東京都文京区教育委員会

昭和63年3月

地図

地図

文京区本郷2丁目 付近 [ストリートビュー]