蕎麦切 発祥の地
そばきりはっしょうのち
中央本線
そばが日本に伝来したのは 奈良時代以前と言われるが,その食べ方は 脱穀したそばの実をそのまま雑穀類に混ぜて煮たり,そば粉を練った“そばがき”の形態であり, 細く切って麺(=そば切り) の形態で食べるようになったのは 室町時代のころと思われる。
ここ栖雲寺が そば切り発祥の地とされる根拠の一つとして, 尾張藩士の国学者 天野信景が書いた『塩尻』という随筆に,
「蕎麦切りは甲州よりはじまる。初め天目山参拝多かりし時 参拝の諸人に食を売るに そばを練りて 旅籠とせしに,其後うどむを学びて今のそば切りとはなり・・・」
という記述があることが挙げられる。他に そば切りの発祥地として “中山道本山宿”説や “木曽 大桑村の定勝寺”説もある。しかし 栖雲寺説を含め いずれの説も 確実な発祥地と断定できる内容ではないとされる。
なお,栖雲寺に関しては 次のような
栖雲寺
貞和4年(1348)業海本浄禅師が開山した禅寺で,業海は文保2年(1318)に元の国に渡り中峯普応国師に師事し,元の天目山で修行して帰国後 武田家の招へいによりこの寺を開いた。
以来,武田家の信望が厚く境内には武田信満の墓,重要文化財の普応国師の坐像のほか,県指定文化財の業海本浄和尚木像,地蔵菩薩磨崖仏など 多くの文化財がある。庫裏右手の裏山には,禅僧の修行の場として使われた石庭がある。
山梨県・大和村
大和村は、平成17年(2005)11月1日、隣接する市町と合併して甲州市となった。
本堂に対面していた石碑が、本堂脇に移設されているようだ。
写真
碑文
蕎麦切発祥の地
天目山栖雲寺
(碑文略)
碑文 大和村長 平山安夫書
平成2年3月建立
大和村
「蕎麦切り発祥の地」
栖雲寺は蕎麦切発祥の地といわれておりますが、この説の元となったのは尾張藩士天野信景が残した雑識集『塩尻』の宝永年間(1704〜1711)の条の記述によります。
「蕎麦切は甲州よりはじまる、初め天目山へ参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売に米麦の少かりし故、そばをねりてはたこ(旅籠)とせし、其後うとむ(饂飩)を学びて今のそば切りとはなりしと信濃人のかたりし」
現在では、麺類は中国大陸に発祥し、日本の麺食は十三世紀の挽き臼の伝来以降に始まったとされ、そのうちの蕎麦切の文献上での初出は十五〜十六世紀であることが確認されています。
そうした史実がまだ明らかでなかった江戸時代に、当地の蕎麦切発祥説が語られたのも開山業海本浄和尚(ごっかいほんじょう)の経歴がいわせたことかもしれません。といいますのは、業海は元朝第四〜六代皇帝のころ、天目山(中国浙江省杭州)にいた臨済宗幻住派の中峰明本に師事し1326年に帰国。そして1348年に杭州天目山辺りの景色によく似ていた、ここ木賊山に天目山栖雲寺を開山しました。
業海が修行した禅宗では料理も修業の一つとされています。また杭州は南宋時代から麺屋や多くの飲食店が営まれていた都でした。したがって業海の杭州生活で身に付いたことの一つに蕎麦打ちがあったのかもしれません。そうおだとしたら業海は大陸からの帰国土産として蕎麦麺を伝えた可能性は十分にあります。そして当山に参じた雲水と共に蕎麦切を食しながら、隠遁生活を極めた中峰明本の教えを守り、この地で修行をしていたのでしょう。それが「蕎麦切は甲州よりはじまる」という伝説となったのかもしれません。
こうした歴代祖師方への報恩の誠を捧げるべく、平成27年から「江戸ソバリエ神奈川の会」の協力を得て、新蕎麦の時季に本尊釈迦如来、普応国師(中峰明本)、開山業海本浄へ手打ち蕎麦を奉納しております。
天目山栖雲寺 住職 青柳真元