床屋 発祥之地

とこやはっしょうのち

山陽本線 下関駅から国道9号線で西に2.5km。亀山八幡宮の大きな鳥居の下。石段を左に見たところに、人間の頭を模した大きな球と櫛と日本剃刀をかたどった石碑が建っている。

「床屋」という名称の由来は下記の碑文に書かれているが、藤原基晴・采女之亮政之うねめのすけまさゆきの父子はこの地で髪結業を営んだと言われ、下関は「床屋発祥の地」とされる。

亀山八幡宮は、関門海峡を見下ろす小高い丘にある。ここは江戸時代末期に「亀山砲台」が置かれた場所で、文久3年(1863)開国を迫る諸外国(アメリカ・フランス・オランダ3国)の艦船と砲火を交えた。(いわゆる“馬関戦争”)

また1kmほど東は「壇の浦」。ここで「源平合戦」が行われ、源義経が平家と戦い勝敗の帰趨が決まった。安徳天皇は二位尼(平清盛の妻)に抱かれて入水した。壇の浦に面する「赤間神宮」には、安徳天皇の廟と平家一門の墓がある。

写真

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碑文

床屋発祥之地 由来

 鎌倉時代の中期(1264~73)亀山天皇に仕えていた京都御所の北面の武士従五位ノ下北小路蔵人之頭藤原基晴は 宝刀の紛失事件の責任をとって職を辞し 三男采女之亮政之を連れて宝刀探索のため 当時蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国下関に下った

 基晴親子は 当時下関で髪結をしていた新羅人からその技術を学び 往来の武士を客として髪結所を開いた 店の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったので下関の人々はいつとはなしに「床の間のある店」転じて「床場」さらに「床屋」という屋号で呼ぶようになった 「床屋」という言葉は下関が発祥地となりその後全国に広まっていった

 藤原基晴は弘安元年(1278)に没し市内の専念寺に葬られた 采女之亮は床屋をつづけながら宝刀の探索を続けそのうち豪商の協力により逐に宝刀を捜し出して天皇に奉還した その後鎌倉に移り住み幕府から京都風の髪を結う髪結職として重用され 屋敷も賜り代々その職を受け継いだ

 時は流れて元亀3年(1572)17代目の籐七郎の時武田信玄との戦いで敗退中の徳川家康を助けた功績により江戸開府後 江戸八百八町の髪結職の営業権を与えられ また橋見守役や火事の時は奉行所の重要書類搬出などの役目も仰せつかった

 特に二代将軍徳川秀忠が「四民髪ヲ結ウハ勝手ノコト身ヲキレイニスルハ長寿ノ元ナリ」というお触れ書を出してから庶民はこぞって髪を結うようになり 男髪結職と女髪結職が急に増え 日本独特の髪型が流行し始めた 江戸時代の風俗文化は髪結職により創り出されたとも言われている 歌舞伎役者の髪型や衣装また浮世絵に見られる美人画の髪型や衣装は 当時の女髪結職の芸術性の豊かさを物語るものである

 床屋の開祖 藤原采女之亮政之の功績を讃え かけがえのない史実を後世に伝えるためここに記念碑を建立した

平成7年7月17日

下関理容美容専修学校 理事長・校長 小野孝策 撰

石工 長府中村重雄

地図

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