徳川氏 発祥の地
とくがわしはっしょうのち
東武伊勢崎線 世良田駅から南へ1.5km、世良田東照宮(太田市世良田町3119-1)のあちこちに、そのスペシャル感が失われるほど、まるで枕詞のように記されている。
江戸幕府を開いた徳川家康の没後、久能山東照宮に祀られた後に日光東照宮へと遷された。後に、三代将軍 徳川家光によって日光東照宮の奥宮が徳川氏発祥地である当地に移築され東照宮が勧請された。
駿府から江戸に移った徳川氏は、世良田氏の末裔を自称していたため、徳川氏ゆかりの地ともされる。
新田氏の開祖・新田義重の居館跡とされ、隣接する長楽寺は義重の供養塔もこの地域は、当社を含め、地域の寺社や館などを総合して新田荘遺跡として国史跡となっている。
どういう理由があるのか、またはたまたまなのか、久能山東照宮~富士山~世良田東照宮~日光東照宮は一直線上に並んでいる。
写真
碑文
徳川氏発祥の地
国指定重要文化財・国指定史跡
世良田東照宮由来
寛永二十年(一六四四)、三代将軍徳川家光公は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。奉斎に当り家光公から御神領二〇〇石が寄進。以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬をつくされました。
東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助成し、世に「お江戸みたけりゃ世良田へござれ…」とうたわれました。
東照宮
元和二年(一六一六)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当寺日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行五間・梁閒三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめていた。
東照宮の鎮座により地元世良田の住民はもとより、近隣数十か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中助郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典によくすることができた。東照宮の文化財
(略)
徳川氏発祥の地
太田氏観光物産協会
①世良田東照宮
拝殿・本殿・唐門(重要文化財)三代将軍徳川家光により、日光東照宮の元社殿や宝物などを移築したもので、徳川氏発祥の地の東照宮として知られています。拝殿・唐門・本殿・鉄燈籠、宝物としての太刀や棟礼が国の重要文化財に指定されています。本殿彫刻、左甚五郎作・狩野探幽画伝「巣籠の鷹」は有名。