屋嘉節 が作られた 発祥の地
やかぶしがつくられたはっしょうのち
沖縄道の屋嘉インターから東に800m。国道329号の“屋嘉ビーチ前”バス停(国道の北側)横に「屋嘉捕虜収容所跡」と書かれた石碑があり、ここに「屋嘉節が作られた発祥の地」であると書かれている。碑の裏面には屋嘉節の7番までの歌詞が刻まれている。
太平洋戦争末期、沖縄戦の結果捕虜になった軍人を収容する収容所が各地に作られ、1万数千人が収容された。ここ屋嘉の収容所は、昭和20年(1945) 6月ごろに開設され、捕虜(PW=Prisoner of War)の数はピーク時には7000人もの大所帯となり、一部はハワイに送られたという。しかし徐々に解放され、翌年には収容所が閉鎖された。
屋嘉収容所での辛い捕虜生活の中で慰めと楽しみは、民謡や踊りだった。空き缶を使った“カンカラ三線”が手作りされ、郷土沖縄出身の兵士により“PW無情”という歌や、後に沖縄民謡となった“屋嘉節”などが作られ、歌われた。
屋嘉節の歌詞には、沖縄が戦場になったことを嘆き悲しみ、命からがら戦場を逃げ回った体験がつづられている。バリエーションが多く、複数の歌詞があるという。
懐しや 沖縄 ナチカしや ウチナ (懐しい沖縄は)
戦場に なやい イクサバに なやい (戦場になって)
世間 御万人ぬ シキン ウマンチュぬ (世間の人々は)
苦さ みそち クラさ みそち (苦しんでいる)
苦さ みそち クラさ みそち (苦しんでいる)
写真
碑文
日本軍屋嘉捕虜収容所跡の碑
第二次世界大戦中(昭和20年)米軍は,この地に捕虜収容所を設け,投降した日本軍将兵約7千人を収容して厳しい監視下におかれた。一時捕虜の数が増え約3千人がハワイに移送された。
その時の将兵等はP.Wと呼ばれ敗戦の悲哀の中から郷土出身の一兵士により「屋嘉節」が作られた発祥の地でもある。
この収容所は1946年(昭和1年2月)閉鎖となり米軍保養所となって,1979年(昭和54年)8月31日全面返還されるに及んだ。
昭和58年10月25日竣工