横須賀 水道 発祥の地

よこすかすいどうはっしょうのち

京浜急行 馬堀まぼり海岸駅から海岸沿いに東に向うと, 横須賀市上下水道局の走水はしりみず水源地(横須賀市走水1-2-1)がある。 ここの構内, 中央の建物の西側に自然石の大きな石碑が建っている。

走水水源地は水源地の環境保全のために通常は閉鎖されていて, 発祥の地碑も見ることができないが, 構内には樹齢40年前後の桜が百数十本あって, 桜の時期には一部が一般に開放される。

水源地前面の国道16号線を挟んで向かい側には, 古いレンガ造りの建物があるが, これは 明治35年(1902) に造られた「走水水源地煉瓦造貯水池」で, 国の重要文化財となっている。


走水水源地は令和3年(2021) から整備を進め、令和4年(2022) 2月から西側広場が通年開放されることとなった。

写真

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碑文

横須賀水道発祥の地

市営水道創設80周年
昭和63年12月25日

横須賀市長 横山和夫

由来

ここ走水は, 横須賀水道発祥の地である。
明治九年(一八七六年)時の横須賀造船所の所長であった, フランス人技師フランソワ・レオンス・ ウェルニーの手により走水の湧水を水源として, 七㎞離れた造船所まで, 五インチの土管で水を引いたことに始まる。
その後, 造船所内の使用量が増加するに従い, 最初に布設された土管から, 明治一八年, 日本初の八イン チ鋳鉄管へ, さらに明治三五年一〇インチ鋳鉄管, 蒸気ポンプ圧送へと増強されていった。これに伴い, 八インチ鋳鉄管が不用になったのを契機に, 市が埋設されたまま払下げをうけ, 走水地内・覚栄寺の裏山に貯水池を設け, 小川町, 大滝町, 若松町など下町地区の住民を対象に, 明治四一年一二月二五日初代 鈴木忠兵衛 市長の時に給水を開始したのが市営水道の誕生である。
今年で市営水道創設八〇周年を迎えるにあたり, 横須賀水道の始祖ウェルニー, 並びに幾多先人の偉 業を偲び走水水源地の名を永遠にとどめたい。

昭和六三年一二月二五日

昭和63年12月25日在職者氏名

(芳名略)

昭和五十二年市制施行七十周年記念
横須賀風物百選

水道水源地

ここ走水一帯は、昔から地下水の豊富なところとして知られ、明治初年頃、水おけで飲み水を市民に売り歩く商売がありましたが、その水は、この走水地内仲町のわき水を船で運んだものだといいます。
現在地の水源を発見し、市内で最初の水道を実現したのは、横須賀製鉄所や観音埼灯台の建設に功績を残したフランス人技師、フランソワ・レオン・ヴェルニーです。
明治七年五月二十七日、この水源から横須賀造船所(現米軍基地内)までの約七キロメートルの水道工事に着手しました。内径約十二・五センチメートル、長さ一メートルの土管をつなぎ合わせて埋設し、土地の高低差を利用して水を送る自然流下方式で、明治九年十二月に完成しました。その後、水道管は土管から鋳鉄管に替わり、内径も約二十センチメートルになりました。更に、明治三十四年から三十五年にかけて内径約二十五センチメートルの水道管が敷設され、動力ポンプによる送水方式になりました。それまでの水道は、軍需用でしたので、市民の水道を敷設するため、不要となった水道管すべての払い下げを受け、走水の覚栄寺境内のわき水を水源として、大滝・若松・小川の三町に送水を開始しました。市制施行一年十か月を経た明治四十一年十二月十五日のことです。使用戸数は三百三十二戸と記録されています。
この水源からは、現在も一日二千立方メートルの良質な地下水を供給している市内唯一の水源地であり、災害時には応急給水の拠点となります。

地図

地図

横須賀市走水1丁目 付近 [ストリートビュー]