愛国 婦人会 発祥之地
あいこくふじんかいはっしょうのち
平成19年(2007) に千代田区役所は九段南1-2-1に新築された九段第3合同庁舎に移転し、かつての千代田区役所(九段南1丁目6-11)は取り壊された。その千代田区旧庁舎に都道から向かって右手、西側の端に石碑が建っていた。石碑が建つ以前は、愛国婦人会の創立者 奥村
ここにあった3つの石碑「日本体育会体操学校之碑」「愛國婦人会発祥碑」「九段精華学校発祥地」は、取り壊し〜国家公務員共済病院(九段南1丁目6-12)の建設に伴い、病院裏手のお堀端の千代田会館寄りにまとめて移設され人目につきにくくなった。
愛国婦人会は 日清戦争の後の明治34年(1901) に, 戦死者の遺族や傷痍軍人の救護・慰問などを目的に作られた。設立に当たっては 貴族院議長 近衛篤麿や海軍少佐 小笠原長生、華族夫人らの援助があり, 歴代の総裁には皇族の妃が勤め, 全皇族を名誉会員として上流階級の婦人多数の会員を擁した。
その後 大日本国防婦人会・大日本連合婦人会 などができたが, 明治42年(1909) には3つの団体は大日本婦人会に統合され, 在郷軍人会とともに銃後を固める組織として 軍事援護に力をつくした。
碑文等にみられる「刀自」は、年上女性に付けられる敬称。現代においては女史または性別を問わず氏や先生等が普通に見られるが、華族婦人等を擁しつつも自分自身は寺の生まれであり、弘化2年(1845) 生まれで会設立時にすでに56歳で、戦後とはいえ昭和30年代という時代もあり刀自と呼ばれたのだろう。
題字は設立に協力した小笠原長生の揮毫。
写真
碑文
愛國婦人會
發祥之地小笠原長生書
會祖
奥村五百子刀自
銅像跡記念の為
之を建つ、昭和三十年秋
奥村刀自法要会