千葉 師範学校 発祥之地
ちばしはんがっこうはっしょうのち
総武流山電鉄の終点, 流山駅から 西に200m。日蓮宗常与寺の境内に 黒御影石の大きな石碑が建っている。
明治5年(1872) 学制の発布に際して, 教員の養成が急務となり, 当時の印旛県は ここ流山の常与寺に「印旛官員共立学舎」を開設。 翌年 千葉県の発足に伴い, 千葉市(当時 千葉町)に移転して「千葉学校」となった。その後 「千葉師範学校」「千葉県尋常師範学校」「千葉県師範学校」と名称を変え, 昭和18年(1943) に「国立千葉師範学校」となった。
戦後 昭和24年(1949) に 千葉師範学校と千葉青年師範学校を合併し「千葉大学学芸学部」となり, 翌年 「千葉大学教育学部」となって 現在に至っている。
常与寺に開設された学校は, 教員養成機能が移転後も 「流山小学校」としてここに残り, 明治22年(1889) に流山4丁目に校舎を新築して移転, これが現在の「流山市立流山小学校」に引き継がれている。
総武流山電鉄㈱は平成20年(2008) 8月に流鉄㈱に社名変更した。
写真
碑文
千葉師範学校発祥之地
印旛官員共立学舎跡
明治五年(1872年)八月学制発布の頃, 流山は下総九郡「千葉・印旛・埴生・葛飾・相馬・岡田・豊田・結城・猿島」を行政区域とする印旛県の県庁所在地であった。
学制が発布された年の九月, 時の印旛県令河瀬秀治は, いままでの教育機関――寺子屋などを, 九月限り廃止することを命じ, 同時に小学校の新設を宣言した。文部省に提出された実地施行書には, 「学制ニ因リ教則ニ随ヒ官員協力仮ニ小学校九月二十三日開業候事,教授人ハ官員中ヨリ当分之ヲ勤メ,費用ハ官員熟議左ノ制ヲ設ケ当分之ヲ償フ。奏任官々給十分ノ一,判任官々給廿分ノ一……」とある。
県令以下の官員が月給の一部を拠金して, 明治五年九月に開設した学校, それが「流山村常与寺」の「印旛官員共立学舎」である。
共立学舎は学制により新設される小学校の模範であり, 小学校教員になろうとする人びとに, 教授の内容・方法を実際に習得させる場でもあった。「伝習員」と呼ばれ, 印旛県内各区から選出された人びとは, 試験ののち十一月はじめに入学, 六十日間教授法を学んで各地の小学教員となった。
まさにここ常与寺に, 学制に基づく教育はうぶ声をあげたのである。この共立学舎は, 鴻ノ台学校と改称流山村光明院に移り, ついで印旛・木更津・新治三県の統合により千葉県が誕生, 県庁が千葉町に移ると, 千葉学校と改称し, 千葉町正妙寺に移転した。更に明治七年千葉師範学校の発足へとつながった。また常与寺はその後も流山小学校として, 地域教育の中心となり, 明治廿二年現在地に移るまで存続した。
時, 1982年, 学制発布百十年に当り, 流山市の教育関係者有志は, ここに記念碑を建 立し, 学制の原点に立ち教育の振興を願うものである。昭和五十七年十一月
共立学舎記念碑設立実行委員会