伊達家 発祥の地
だてけはっしょうのち
阿武隈急行線 高子駅から北に300mのところに
高子岡城は伊達氏の始祖・朝宗が源頼朝より伊達郡を賜って最初に築いた居城。1189(文治5)年、源頼朝は源義経をかくまっていた奥州藤原氏を攻撃してこれを滅ぼした(奥州合戦)。この合戦に戦功のあった中村念西は陸奥国伊達郡を賜り、高子岡の地に城を築いて居城とし、中村の姓を伊達に改めて朝宗と名乗った。これが伊達氏の発祥である。
伊達家はその後360年間この地に勢力を構えたが、15代晴宗の時代に将軍足利義輝の命で米沢城に移った。17代・伊達政宗の時に最盛期を迎え、実高100万石を超える規模に達した。戊辰戦争に際して会津藩の味方をしたため朝敵として処分され、いったん領地を没収された後に28万石を与えられ、明治維新後は伯爵として存続した。
写真
碑文
高子岡城跡 伊達家発祥の地
所在地 保原町大字上保原字丹露盤・高子
高子岡城跡(高子館跡ともいう)は、伊達家の始祖伊達朝宗(中村入道念西)の居城跡と伝えられている。城域は北に張り出した小丘の一帯で、北西側は断崖となっている。頂上から伊達平野が一望できる。
念西は、文治五年(1189)の奥州合戦に子息を率いて参加、源頼朝方として伊達郡厚樫山の合戦等で戦功を挙げた。よって伊達郡を賜り、高子岡に城を築いて移住、中村の姓を伊達とあらためた。山上に鎮座する八幡宮は、このとき、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものという。この社は亀岡八幡宮とも呼ばれ、伊達家の移遷とともに移って、現在は仙台市川内亀岡町に鎮座している。念西の墓は桑折町の万正寺(満勝寺跡)に、念西夫人の墓は国見町の光明寺(福聚寺)にある。
平成十五年四月 保原町教育委員会