国学 発祥の地
こくがくはっしょうのち
神田明神(神田神社)の境内。髄神門を入り 拝殿の東側に回り込むと, 「銭形平次の碑」と並んで, 今東光 撰文の国学発祥之地石碑が建っている。
江戸時代中期頃までは、学問は中国からの輸入された儒教等、外国のものでしたが、そこへきてようやく日本のことに目を向ける文化が醸成されていました。京都伏見の神宮で国学者であった荷田春満が、江戸に出て初めて国学を説いたのが神田神社神主の芝崎邸内でした。そのいわれから、江戸における国学の発祥地が神田明神であったということがわかります。
写真
碑文
國學發祥之地
今 東光 撰文
荷田東丸は 京都伏見稲荷社家に生る 通称羽倉斎本名信盛なり 元禄十三年三代将軍家光五十年祭に勅使として 大炊御門前右大臣経光公中仙道経由日光及び江戸に下向の砌り随行して江戸に出で 享保七年まで在府せり その間各所に講説し歌会を催し且つ多くの門人を養へり その講席は当社神主芝崎邸にて後に東丸養子在満及び高弟浜松の人岡部三四真淵もこの邸を借用せり 当時神主は芝崎宮内少輔好高 その男宮内大輔好寛その舎弟豊後守好全の三代約百年に至れり 然も好全妻女は東丸の女直子なり されば芝崎神主は歴代自ら学ぶと共に能く師東丸のために尽痺し学園の場を供して国学振興に寄与せり 師東丸は門弟を訓ふる頗る懇切なりき 殊に元禄十五年 門弟の宗偏流茶人中島五郎作宗吾等と密かに赤穂浪士のために計りて義挙を扶けしはその忠直の性を知るに足る この東丸出でて吾が国学は加茂真淵 本居宣長と伝統して今日に至る 今その遺蹟に記して以て国学の為に伝ふ