扶桑 最初 禅窟
ふそうさいしょぜんくつ
福岡市営地下鉄・祇園駅から北北西に200m。聖福寺の総門の自然石の門柱に「扶桑最初禅窟」と彫り込まれているほか、脇に設置された寺の由来を書いた説明板にも「
後に喫茶の習慣を日本に伝えたことで知られる栄西禅師は、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度し、以後延暦寺・伯耆の大山寺などで天台宗を学んだ。27歳の時、形骸化し堕落した日本の天台宗を立て直すべく、南宋に留学。当時南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の立て直しに活用すべく禅を学ぶ。19年後に再び宋に渡り、臨済宗黄龍派の印可を受け、帰国後は筑前・肥後を中心に布教に努めた。
やがて禅宗が盛んになると、天台宗からの排斥を受け、一時は朝廷より“禅宗停止”を命じられたが、鎌倉幕府が開かれると源頼朝により博多に土地を与えられ、聖福寺を建立。これは日本で最初の禅道場であり、後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を受けた。“扶桑”は“日本”の異称で“日本で最初の禅寺”を意味するもので、この扁額は現在も山門に掲げられているという。
栄西はその後、北条政子の招きで鎌倉の寿福寺の住職を務め、源頼家の庇護を受けて京都に建仁寺を建立し、更に奈良・東大寺の住職を努めた後、1215年に75歳で没した。
【リンク】聖福寺
写真
碑文
扶桑 最初 禅窟 聖福寺
聖福寺 は、建久 6年(1195)年に将軍源 頼朝 公よりこの地を賜り、栄西 禅師 を開山として創建された日本最初の禅寺です。後鳥羽 上皇より、日本で最初の禅寺である事を意する「扶桑 最初 禅窟 」の勅号を賜りました。
境内は、創建当初には方八町(約900m四方)を戴き、塔頭 も38院(現在は6院)を数えました。栄西禅師の没後、室町幕府の衰退と戦乱により荒廃しま すが、天正 15年(1587年)の太閤町割 により寺域も方四町に狭められ、現在に至っております。勅使門、山門、仏殿、方丈が直線状に並んだ禅宗様式の伽藍 配置をとどめる境内は国の史跡に指定されています。
栄西禅師は我が国の茶祖としても知られ、佐賀県背振 山霊仙寺 の石上坊 や当寺に茶種をまき、ここから京都府の栂尾 や宇治 にひろめたといわれています。
歴代の高僧のうち、江戸時代末期の倦厓義梵 禅師は「博多の仙厓 さん」と親しまれ、洒脱に描く禅画は広く世に知られています。
聖福寺の歴史
聖福寺 は山号を安国山 (通称安山 )、寺号を聖福至仁禅寺 といいます。開山 は千光祖師明庵栄西禅師 です。建久6年(1195)に源頼朝公より、この地を賜り、頼朝公を開基として創建された、日本で最初の禅寺です。また後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟 」(山門の楼上に提示)の号を賜っています。栄西 禅師は、この寺を建てるまでに二度、宋に渡り、二度目に渡宋した折に中国の虚庵 禅師より印可を得、臨済宗 黄龍派 の法を継承して建久2年(1192)に帰朝しました。宋の孝宗 皇帝より「千光 祖師」の号を賜っています。
聖福寺以外に、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺などの禅院を造営し、「興禅護国論」など多数の著書を著して禅の宣揚に努めるとともに、香椎に建久法恩寺を立てて、日本で初めて菩薩戒による布薩会を行いました。
また栄西禅師は宋(中国)より「茶」を持ち帰り、当時境内や背振山などに植えて、各地に広めました。同時に宋風の喫茶も伝え、「喫茶養生記」を著して茶文化の先導的な役割を果しています。後に「茶祖」と呼ばれる所以です。(以下略)