扶桑 最初 禅窟

ふそうさいしょぜんくつ

 
撮影:
2012年2月
2013年1月(写真 T.K.さん)
2018年7月(写真 M.O.さん)

福岡市営地下鉄・祇園駅から北北西に200m。聖福寺の総門の自然石の門柱に「扶桑最初禅窟」と彫り込まれているほか、脇に設置された寺の由来を書いた説明板にも「扶桑ふそう最初さいしょ禅窟ぜんくつ(日本で最初の禅寺)」と書かれている。また、総門から30mほど西にある勅使門の前にも「扶桑最初禅窟」と刻まれた大きな石標も建っている。

後に喫茶の習慣を日本に伝えたことで知られる栄西禅師は、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度し、以後延暦寺・伯耆の大山寺などで天台宗を学んだ。27歳の時、形骸化し堕落した日本の天台宗を立て直すべく、南宋に留学。当時南宋では禅宗が繁栄しており、日本仏教の立て直しに活用すべく禅を学ぶ。19年後に再び宋に渡り、臨済宗黄龍派の印可を受け、帰国後は筑前・肥後を中心に布教に努めた。

やがて禅宗が盛んになると、天台宗からの排斥を受け、一時は朝廷より“禅宗停止”を命じられたが、鎌倉幕府が開かれると源頼朝により博多に土地を与えられ、聖福寺を建立。これは日本で最初の禅道場であり、後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を受けた。“扶桑”は“日本”の異称で“日本で最初の禅寺”を意味するもので、この扁額は現在も山門に掲げられているという。

栄西はその後、北条政子の招きで鎌倉の寿福寺の住職を務め、源頼家の庇護を受けて京都に建仁寺を建立し、更に奈良・東大寺の住職を努めた後、1215年に75歳で没した。

【リンク】聖福寺

写真

  • 聖福寺 総門 (2018)
  • 聖福寺境内案内図 (2018)
  • 聖福寺 説明板
  • 聖福寺 総門 説明板
  • 聖福寺境内案内図
  • 扶桑最初禅窟 勅使門
  • 扶桑最初禅窟 山門 扁額
  • 扶桑最初禅窟 勅使門 石柱

碑文

扶桑ふそう最初さいしょ禅窟ぜんくつ 聖福寺しょうふくじ

 聖福寺しょうふくじは、建久けんきゅう6年(1195)年に将軍みなもとの頼朝よりとも公よりこの地を賜り、栄西ようさい禅師ぜんじを開山として創建された日本最初の禅寺です。後鳥羽ごとば上皇より、日本で最初の禅寺である事を意する「扶桑ふそう最初さいしょ禅窟ぜんくつ」の勅号を賜りました。
 境内は、創建当初には方八町(約900m四方)を戴き、塔頭たっちゅうも38院(現在は6院)を数えました。栄西禅師の没後、室町幕府の衰退と戦乱により荒廃しま すが、天正てんしょう15年(1587年)の太閤町割たいこうまちわりにより寺域も方四町に狭められ、現在に至っております。勅使門、山門、仏殿、方丈が直線状に並んだ禅宗様式の伽藍がらん配置をとどめる境内は国の史跡に指定されています。
 栄西禅師は我が国の茶祖としても知られ、佐賀県背振せふり霊仙寺りょうぜんじ石上坊いわがみぼうや当寺に茶種をまき、ここから京都府の栂尾とがのお宇治うじにひろめたといわれています。
 歴代の高僧のうち、江戸時代末期の倦厓義梵せんがいぎぼん禅師は「博多の仙厓せんがいさん」と親しまれ、洒脱に描く禅画は広く世に知られています。

聖福寺の歴史

聖福寺しょうふくじは山号を安国山あんこくざん(通称安山あんざん)、寺号を聖福至仁禅寺しょうふくしじんぜんじといいます。開山かいざん千光祖師明庵栄西禅師せんこうそしみんなんようさいぜんじです。建久6年(1195)に源頼朝公より、この地を賜り、頼朝公を開基として創建された、日本で最初の禅寺です。また後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟ふそうさいしょぜんくつ」(山門の楼上に提示)の号を賜っています。
栄西ようさい禅師は、この寺を建てるまでに二度、宋に渡り、二度目に渡宋した折に中国の虚庵きあん禅師より印可を得、臨済宗りんざいしゅう黄龍派おうりょうはの法を継承して建久2年(1192)に帰朝しました。宋の孝宗こうそう皇帝より「千光せんこう祖師」の号を賜っています。
聖福寺以外に、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺などの禅院を造営し、「興禅護国論」など多数の著書を著して禅の宣揚に努めるとともに、香椎に建久法恩寺を立てて、日本で初めて菩薩戒による布薩会を行いました。
また栄西禅師は宋(中国)より「茶」を持ち帰り、当時境内や背振山などに植えて、各地に広めました。同時に宋風の喫茶も伝え、「喫茶養生記」を著して茶文化の先導的な役割を果しています。後に「茶祖」と呼ばれる所以です。

(以下略)

地図

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福岡市博多区御供所町 付近 [ストリートビュー]