義民 発祥の地
ぎみんはっしょうのち
長良川鉄道
1755年(宝暦5年)8月、農民70人あまりが密かに集まり、
また、入浴施設の建物屋根が八角形になっているが、傘連判状に由来する。
写真
碑文
郡上藩宝暦騒動
義民発祥の地
那留ヶ野 帳締谷
平成10年12月吉日
施主 大西明守
- 那留ヶ野(なるがの)
- 帳締谷(ちょうじめだに)
宝暦義民碑
郡上郡村々 傘連判状
(連判状の様子 略)
趣意
今から二百四十余年前、宝暦年间郡上藩主金森頼錦が農民に対し不当な重税と年貢米の強制取立に対し農民は塗炭の辛苦にたえかね宝暦五年八月十二日那留ヶ野帳締谷の子持杉を目当に農民有志七十余人が集合して一揆を決意し筆頭のわからぬよう傘連判状を認めて神文を誓詞。酒色を慎しみ他言するなかれと固く誓い合い翌十三日㐧一陣代表四十人が江戸出訴に旅立った。
同年十一月二十六日、老中酒井忠寄の行列に願書を差し出して、駕篭訴を決行したが町奉行の咎はきびしく駕篭訴五人は入牢となり他の者は宿預けとなって二年余が過ぎ去った。
宝暦八年四月二日、同志の安否を気づかって㐧二陣が出訴して内六人が幕府に対して箱訴を決行したが、幕府は公儀を恐れず徒党非分の申立は不届至極によって獄门。死罪、遠島の重罪となり、前谷村定次郎三一才歩岐島村四郎左エ门三九才寒水村由蔵三九才は首謀者とされて打首となり翌年一月江戸より送首となって穀見村中野河原にて三日間の晒首となった。この一揆によって死刑十四人うち獄门四人牢死十九人。追放等の処分は百人近くであった。
宝暦八年十月、幕府の裁断は藩主金森家領地没収お家断絶となり騒動も決着して単語宮津より青山大膳亮を迎えて世は太平となって百姓住民は城下に集いて義士を称え夜を徹して踊り明かした。
時代の変遷はきびしく、こゝ那留ヶ野も高速道路の開通によってその変貌は往時を偲び難く、義士の尊い犠牲と愛郷の精神を永久に顕彰して遺徳を讃え碑石を建立し安らかな御冥福を祈る。平成十年十二月吉日
宝暦義民 顕彰会
施主 大西明守