平時 災害 救護 発祥の地

へいじさいがいきゅうごはっしょうのち

磐越西線 猪苗代駅から北に15km。五色沼の一つ,毘沙門沼の駐車場入口近くに,高さ3mもありそうな大きな黒い石碑「日本赤十字社・平時災害救護発祥の地」と説明板が建っている。

赤十字は戦争中に傷ついた兵士を救護することを目的に設立された組織で,元治元年(1864) に成立したジュネーブ条約によって国際組織となった。日本では,明治10年(1877) の西南戦争時に 敵味方の区別なく戦傷者の救護を行う目的で 熊本洋学校に“博愛社”が設立され,明治19年(1886) に日本がジュネーブ条約に調印したことを受けて“日本赤十字社”と改称された。

明治21年(1888),それまで1000年間ほとんど火山活動を停止していた磐梯山に 突然大規模な水蒸気爆発が発生し,北側(裏磐梯側)が山体崩壊と岩屑がんせつなだれを起こし 大きく北に向けて馬蹄形地形が形成された。川が埋没して水がせき止められ,桧原湖・小野川湖・秋元湖・五色沼などが形成され,繰り返し自然ダムが決壊して 土石流・火山泥流となって下流地域を襲った。この結果,北麓の5つの村の集落が埋没。477人の死者が出るという甚大な被害が発生した。

負傷者は地元の開業医らが治療にあたり,福島市の病院からも医師が派遣された。また東大医学部の学生らも自費で磐梯山に駆けつけており,災害ボランティアの先駆けとなった。

この時,日本赤十字社の内部では これは戦争ではないとの反対論があったのを押し切って,3名の医師と看護婦たちが派遣されて救護活動にあたった。これは戦争における救護が目的であった赤十字が戦争ではない平時に救護活動を行った最初のケースとなった。それまでの戦時救護だけの活動範囲を越えて救護活動を行った日本赤十字社の行動は世界的に注目され,平時救護は正式に赤十字の活動対象に加えることになったが,それが国際的に規定されたのは 30年を経過した大正8年(1919) 以降のことであった。

この発祥碑は,日赤福島県支部創立100周年を記念して,磐梯山における平時災害救護活動を顕彰するために平成元年(1989) に建立された。

写真

  • 平時災害救護発祥の地
  • 平時災害救護発祥の地
  • 平時災害救護発祥の地 背面
  • 平時災害救護発祥の地 碑文
  • 平時災害救護発祥の地 碑文
  • 平時災害救護発祥の地 碑文

碑文

日本赤十字社
平時災害救護
発祥の地

日本赤十字社 社長
山本 正淑
日本赤十字社 福島支部長
佐藤 栄佐久

1888年(明治21年)7月15日午前7時45分頃,磐梯山が突如大爆発し,死傷者500余名を数える大惨事となった。
 この大惨事に際し,日本赤十字社は医療救護員3名を派遣し,地元猪苗代町の医師ともども日夜の別なく,診療,治療の救護活動を展開した。
 世界の赤十字は当初戦時救護を目的として誕生したが,その後平時救護を正式にその活動対象に加えることとしたのは,国際機関である赤十字社連盟が設立された1919年以降である。日本赤十字社の磐梯山爆発における救護活動から30有余年もあとのことであった。このことからも磐梯山爆発における救護活動は,赤十字平時救護の先駆的な例として歴史的に注目されているところである。
 日本赤十字社福島県支部創立100周年にあたり,先人の発揮された情熱と遺業をしのぶとともに 赤十字活動の発展を祈念して平時救護にゆかりの当地にこの碑を建立する

1989年(平成元年)9月

地図

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北塩原村桧原 付近 [ストリートビュー]