最初の 兵庫県庁の地

さいしょのひょうごけんちょうのち

新川運河の西岸沿いにおよそ300mに渡って“キャナルプロムナード”と名づけられた遊歩道が整備されている。そのほぼ中央付近に「兵庫城跡・最初の兵庫県庁の地」という石碑が建っている。

1582(天正9)年織田信長の時代, この地に“兵庫城”が築城された。今は新川運河によって分断されているが, 兵庫港に隣接する形で 中之島(中央卸売市場のあたり)も含めて, 周囲を掘割で囲まれた城があった。明治維新後, 兵庫城跡は 兵庫鎮台, 兵庫裁判所を経て, 1868(明治元)年に 兵庫県庁となった。 (ちなみに 初代の兵庫県知事は伊東博文)

しかし兵庫県庁は わずか4ヶ月後に湊川神社の近くに移転した。

兵庫港は 和田岬の東にあった港で, 奈良時代以前から良港として栄えた。平安時代になって平清盛は宋との貿易の拠点としてここを“大輪田泊”として整備した。しかし地形的に東方からの風と波に弱い港であったため難破する船も多く, 和田岬の砂嘴状の岬を大きく廻らなければ 入港できなかい不便さがあったため, 明治になってからこの地に運河を建設することになった。1874(明治7)年に工事にとりかかり 1875(明治8)年に完成したのが「新川運河」で, さらに 1900(明治33)年には 新川運河の西側に「兵庫運河」が開削され, 全長3kmの日本最大の運河が完成した。

その後、兵庫突堤・ポートアイランドなどが建設されて神戸港は大きく発展し, 新川・兵庫運河の機能は失われ, ほとんど廃用状態となり荒廃していった。1990年代になって運河周辺のリニューアルが行われ, 運河の岸壁を取り壊して約300mの木製の遊歩道に生まれ変わり, 「キャナル・プロムナード」と名づけられた。

写真

  • 最初の兵庫県庁の地
  • 最初の兵庫県庁の地 碑
  • 最初の兵庫県庁の地 説明

碑文

兵庫城跡
 最初の兵庫県庁の地

天正九年(1581)池田信輝が この辺から
切戸町へかけて 兵庫城を築いた 明治元年
城の一部に 最初の兵庫県庁がおかれた

昭和三十八年三月 神戸市

兵庫城跡と最初の兵庫県庁

天正八年(一五八〇)池田信輝と輝政父子が花熊城を攻め落とした功によって兵庫の土地を与えられてから, 兵庫は, それまでの室町幕府の権力を離れ, 東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して, 新たに織田信長の手に入り, これを機会に池田氏は花熊城の遺材も加えて兵庫城を築いた。その地点は現在の切戸町, 中之島中央市場にかけて東西, 南北ともだいたい一四〇メートルの地域で, 周囲には幅三・六メートルの濠があった。
 古来兵庫は, 源平の合戦, 湊川合戦 以来たびたび大きな合戦があって, そのつどひどい戦災を受けた。兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。しかし信長・秀吉による全国統一がなってからはこの地方ではもう合戦がなく, 兵庫の町は平和に栄えていった。
 兵庫城跡は江戸時代に入って元和三年(一六一七)尼崎藩領となって藩の陣屋となり、明和六年(一七六九)幕府領となってからは大坂町奉行所に所属して, 与力や同心の勤蕃所として明治になるまで続いた。
 新政府は慶応四年(一八六八年同年九月八日明治改元)一月二十二日にこの城跡の一部に兵庫鎮台を設けたが, 二月二日に兵庫裁判所と名が変わり, 五月二十三日にまた「兵庫県」と改められた。つまりここが最初の兵庫県庁である。その後県庁は同年九月十八日, 今の神戸地方裁判所の場所に新築移転, さらに明治六年五月現在地に移転した。
 明治七年(一八七四)新川運河の開削が行われ, 城跡の中心地はほとんど川敷になってしまった。

兵庫県
神戸市
岡方協議会

地図

地図

兵庫区中之島2丁目 付近 [ストリートビュー]