稲作 発祥之地(剣淵)
いなさくはっしょうのち
宗谷本線 剣淵駅から南西に4km、機械庫の近くの木の下に石碑がある。
剣淵町における稲作の発祥は、明治30年(1897)に屯田兵が上川地方に入植し、自給自足のため陸稲栽培を試みたことに始まる。しかし、冷涼な気候により収穫は不安定であった。
その中でも特筆すべきは、明治33年(1900) に酒元喜市が水稲の試作を行ったことである。これが剣淵における水稲栽培の最初の試みとされている。しかし、当時の水利条件は厳しく、用水の不足が大きな課題であった。
本格的な水稲栽培への転換は、明治35年(1902) に上川農事試験場が設立され、耐冷性品種の研究と栽培技術の指導が始まったことが契機となる。特に、明治39年(1906) に試験栽培が開始された「赤毛」は、冷害に強く、この地域の気候に適した品種として注目を集めた。同時期に、小規模ながらも水田の造成が試みられ、湧水や河川からの引水による灌漑が行われた。
大正時代に入ると、優良品種の普及と灌漑施設の整備が本格化し、稲作は徐々に拡大していった。特に、大正3年(1914) に剣淵で大規模な水稲栽培が成功したことは、地域における稲作の可能性を示す大きな転機となった。この成功は、それまでの冷害への懸念を払拭し、多くの農家が水稲栽培へと移行するきっかけとなった。また、酒元喜市の試作から遅れること大正14年(1925) には、桜岡貯水池灌漑溝が完成し、大規模な造田が進むなど、用水不足の解消に向けたインフラ整備も稲作の発展を支えた。
初期の稲作においては、地域の特性を活かした独自の工夫も凝らされた。例えば、冷たい水温を和らげるための「水温上昇溝」の設置や、短い生育期間に対応するための早期育成技術の導入など、試行錯誤が繰り返された。これらの努力により、剣淵における稲作は、厳しい自然条件を克服し、地域の主要産業へと成長していったのである。
このように、剣淵における稲作の発祥は、屯田兵による初期の試みから始まり、酒元喜市のような先駆者の挑戦、上川農事試験場の貢献、そして地域の農家による不断の努力と創意工夫によって、その基礎が築かれたと言える。
写真
碑文
稲作発祥之地
剣淵町長 大澤秀了
剣淵町の米づくり歴史
剣淵町の米づくりは、明治三十三年より試作され、気候条件の上から米づくりは困難とされ、水利、又強度の泥炭地質と悪条件の中で不可能を可能にした米づくりの、ヒトこそ酒元喜市氏である。水稲の発展なくして、望み得ず、現在の飛躍的な水稲の発展となった。
昭和六十年八月吉日建立
剣淵町稲作研究会