観音山 慈眼院 発祥の由来
かんのんさんじげんいんはっしょうのゆらい
東武野田線 江戸川台駅から 北に1km。真言宗慈眼院(流山市東深井12)の山門前に 大きな自然石の発祥碑が建つ。
石田三成が 関ヶ原の合戦に敗れた後, 徳川家康は15,000を引き連れて 三成の居城 佐和山城を攻めた。佐和山城に篭る石田軍は,三成の父正継,兄の正澄ら2800人。関ヶ原での敗戦を知った石田正継は 石田一族の自刃と引き替えに 籠城した将兵の助命を条件に開城を受け入れたが, 城の引き渡しというときに突如 東軍の一部が城に乱入。正継は「内府も念のこもったことよ」と言い捨てて 自害した。
この時に 一緒に自害した者の中にいた 山田上野介は, 子の隼人を落ち延びさせた。
隼人の子 宇吉郎(後に喜庵)は, 総州流山で医者となり, 佐和山の落城の事情を「佐和山落城記」に 書きしるし, 戦死者を弔った。 慈眼院は その跡に建てられたとされる。
この碑は 慈眼院本堂再建の記念碑として 昭和56年(1981) に建てられた。
写真
碑文
観音山慈眼院発祥の由来
抑々慈眼院建立の由縁を尋ぬるに 慶長五年九月 関ヶ原の戦いに於て石田治部少輔 三成公の居城佐和山落城に際し 番頭山田上野之助と嫡子隼人との訣別に当り 父上野之助の遺命に起因すること大なり。佐和山落城記に依れば 汝此の世になかりせば誰か 我が菩提を弔ふものなし 我がなき後の一遍の念仏を手向くれるは汝一人なり又 主人 三成落方しれず運のつきたる人なれば 如何なる害のあらんも知れず 見届けくれよ 其の上今最期の人々の仏果菩提を弔ふべし 又 時節もあらばこの恥辱をもそそぐべし とあり。大阪落城後一周年の元和二年五月 幼名宇吉郎 長じて喜庵と改名 其の喜庵により記述された佐和山落城記に明らかなり。記述に依れば 江州(彦根市)佐和山城主石田 治部少輔三成の臣 番頭山田上野之助 同隼人は智あり 仁あり 才あり 勇あり 三成の 寵愛浅からず同孫に宇吉郎という一子あり。慶長五年九月関ヶ原の戦い 同月十八日午 刻佐和山落城 上野之助は嫡子隼人に自害を思いとまらせ 佐和山脱出を言明し己は自 刃 父の遺命により隼人は五才の宇吉郎を背負い 美濃国池田郡(岐阜県揖斐郡)の山中 に落ち行き 後 巡礼の姿となり諸国を巡り 慶長十五年関東に下り周易墨占を業とし 宇吉郎に医術を習わせ深井の里(流山市東深井)に住す。慶長十九年 大阪冬一乱となり 隼人は大阪に馳せ参じて木村長門守重成の軍に加わり元和元年五月六日 夏の陣にて 討死。宇吉郎は医師となり 元和二年五月 佐和山落城記を記述し 戦歿群霊の菩提を 弔い後世に伝う。慈眼院建立の年代は未詳なるも 喜庵歿後に創建したることと推察し 得る。此処に 新たに本堂再建を計画し 内部に安置せる十一面観音本尊塔も修復彩色し 昭和五十五年十二月新築落慶する。山田上野之助の遺言とも言うべき遺命を無言の中 に継承し連綿と続く山田家々主は先祖の菩提を弔うべく 慈眼院を氏寺として維持し 今日に到った。昭和十年喜庵に依り記述された落城記(東京帝国大学史料編纂所 渡辺 世祐博士により佐和山落城記と命名)慈眼院建立の由縁は更に明らかとなる。茲に本堂 再建 山門 塀の新築を記念し 慈眼院発祥の縁起を撰書して後世に伝うるものなり。
昭和五十六年七月
山田家当主 山田要次郎 撰