金持党 発祥之地
かもちとうはっしょうのち
伯備線 根雨駅から南南東に3km。国道181号 出雲街道から金持神社の参道が南に分岐する地点に,観光物産館 金持神社売店札所(日野郡日野町金持1490)と駐車場がある。駐車場の一画に,国道を背にして(200mほど南の神社を向いて)「金持党発祥之地」と刻まれた黒い石碑と副碑が建っている。
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「金持党」は「金持一族」を意味し,伯耆国金持郷を本拠地とし,平安時代末期にかけて土地の特産である砂鉄の力を背景に成長し,源頼朝とのつながりを持ち鎌倉御家人となった。南北朝時代のはじめ,隠岐を脱出した後醍醐天皇は 大山の麓の船上山に行宮を構え,鎌倉幕府との間で“船上山の戦い”を繰り広げ,ここに金持党が馳せ参じたとされる。金持党は南朝に属して各地を転戦したが,その間に本拠地を北朝方の山名氏に奪われたため,金持党はこの地を追われ一掃された。
現在 「金持」姓が各地に点在するが,その多くは金持党が転戦先に土着したものとされる。本来「金持」は「かもち」と読むが,ルーツと異なる場所に土着した金持党は「かなもち」「かねもち」など 本来の読み方から変わっている
この発祥碑は,埋もれていた歴史を再評価しようと,平成21年(2009) に建立された。
写真
碑文
金持党発祥之地
日野町長書
碑文
ここ鳥取県日野郡日野町金持は,全国に広がる金持一族発祥の地である。古代,鉄を産したことにより当地は「かもち」と呼ばれ「金持」の漢字があてられた。
やがてここに藤原姓の金持党が生まれ鎌倉時代初めの元久年間には金持弘親公が伯耆守護となるなど,砂鉄を背景として次第にその勢力を広げた。その後,宝治合戦で敗れて雌伏していた金持党が再び世に現われたのが元弘の変である。
隠岐を脱出した後醍醐天皇は,名和長年の援けを得て船上山に拠り鎌倉幕府追討の檄を飛ばした。これに応えて馳参じたのが金持大和守景藤公率いる三百余騎の軍勢であった。景藤は後醍醐天皇の京都帰還の際には,錦の御旗を奉じてその左に従うなど,股肱の臣として建武新政の重要な地位を占めたのである。以後,金持党は終始南朝方として各地を転戦した。しかるに南朝は次第に衰亡,伯耆は北朝方の山名氏によって支配され金持党はその本拠を失うに至った。
しかし,金持党の末裔は転戦先にてその名字を残している。金持の地を離れたことにより,読み方は「かなじ」「かなもち」「かねもち」などに変わったが,多くはここ金持党の末裔である。金持党誕生以来九百余年その本貫であるこの地に碑を建立するものである。二〇〇九年 姓氏研究家 森岡浩撰