日本 甘藷 栽培初地之碑
にっぽんかんしょさいばいしょちのひ
種子島の北西、西之表港から国道58号線を南西方向へ約5km、国道沿いの下石寺神社鳥居の脇に立派な石碑が建っている。
脇にある小さな石碑は、貢献者 大瀬休左衛門の墓の方向を示している。
ふるさと種子島(予備.pdf)には背面の碑文についての言及もある。
写真
碑文
日本甘藷栽培初地之碑
正四位男爵 種子島守時題
日本甘藷栽培初地の碑
第十九代種子島島主久基(栖林公)は、元禄十一年(一六九八年)三月琉球王尚貞に懇望して、一籠の甘藷の寄贈を受けた。
過信西村時乗を命じ栽培法を研修させ時乗は下石寺の大瀬休左衛門に実験的試作を命じ、苦心の末に栽培を可能とした。
七年後に山川(鹿児島県)の前田和右衛門が甘藷栽培を行い、甘藷先生と呼ばれた青木昆陽はこの年(元禄十一年)に生まれている。碑文
「本邦甘藷の栽培は我が種子島に創まり、種子島は我が下寺石を以て試作の地と為す。
故に題して日本甘藷栽培初地の碑と曰ふ。
初め栖林公、治を図るや、志済民に在り。嘗て琉人より甘藷の利を聞き、折簡して之を求む。元禄十一年三月、中山王尚貞一籠を贈る……」
栖林神社をカライモの神社という由縁でもある。西之表市
ふるさと歴史散歩日本最初の
甘藷 栽培 第十九代
久基 (栖林 公)は飢饉 の時の救荒 作物として甘藷に関心を寄せ、元禄十一年(一六九八)三月、琉球王 尚貞に懇望 して一籠 の寄贈 を受け、家臣の西村時乗に栽培の研究を命じた。時乗はこの地の大瀬 休左衛門 に試作をさせた。休左衛門は苦心の末についに栽培に成功、以後薩摩はもとより全国に広まることとなった。