途別 水田の碑
とべつすいでんのひ
依田近隣センターの裏手にあるという。
いなほ公園のトイレ近くに設置されていた周辺地図を参考にして辿り着ける。
https://www.okmhn.com/2020/12/06/banseisya-sekihi/
12月27日 <幕別町稲作の歴史をたどる①> 十勝の水田開発は依田勉三によって行われました。1982年に晩成社を設立した勉三は1901年に当時の幕別村途別に目を付け、七反歩(約7,000㎡)の水田を造成。 1920年に稲作が実った際に兄から送られた「途別水田の碑」は現在の依田近隣センターそばにあります。 https://t.co/ZvNOUl0uoq
— 幕別町地域おこし協力隊 (@makubetsuokoshi) December 26, 2023
写真
碑文
途別水田の碑
元禄時代の伝長坊という人は開国の志があり阿寒山麓を耕しひそかに三年以上も努力した。作物が始めて実りそれを持ち帰り、師である佐藤信景に報告した。信景も早くから開国の志があり、元禄十一年に門生と共に来て農作をした。元禄十四年開国新書を著し、その産物を松前藩主に献上し、その地を開拓することを願い望んだ。しかし許しは出なかったが、その土地が穀物に適することを知らすことができた。札幌農学校は天理農法の主唱者、小柳津氏と同じく、水田危険の説を強く唱えていた。今の農学者は農学を知らない。嘆かわしいことである。我農場は二十数年前に田植えの効果を得た。しかしながらまだ適さないだろうと思うのは人情であり、中止した。そして十年前に再び四年間試みたが、農民は離農してしまい、わずかに二戸を残すのみとなった。その後、今から六年前に弟の勉三が田畑に自ら出て農民と共に働き、今日に至った。私がつくづく思うに、昔早くから信景はすでに試み、正しい道へと計画を立てていた。本道の大きな計画は今である第一次世界大戦などがあり食糧問題を引き起こし、米穀の需要は一層期待されている
もし当時、松前藩主が信景の言うことに従っていればおそらく今日世の人々を救うことの功績は大きかったであろう。私は思うところがあり、その偉業の消滅を恐れて、これを書きしるした。大正九年九月 依田佐二平 文並びに書
八重柏冬雷訳す
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